「存続」を表す「た」、学校文法の有効性など

 夏のひこうき雲 - 日本語が英文法的理解において語られがちなこと、「思う」という時制という記事に、note of vermilion - アスペクトとかからトラックバックを頂きました。

 参考となるリソースのご紹介も含め、話題の詳細なフォローありがとうございます。私のは素人考えの域を出ないのですが少し補足してみます。

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「思う」のような動きを表す動詞の場合、「た」で存続の意味を表すことは文法的に無理で、「ている」によって状態動詞「思っている」に変化させた上でなければならない、というところまではいえるんじゃないかと

 うーん、そうですねえ。「存続」という分類の名称の意味を(「確認」との違いなど)どう理解するかにもよるんでしょうけど、たとえば

「前からあなたのことが好きでした」

 なら、現在まで続いているという示唆を含んでいると理解するのが自然だと思います。またこの場合、「前から」という部分を付け足すことは何ら違和感がないと感じます(結局文脈次第とはいえ、少なくとも上の例は用法として「た」の本来的意味から何ら逸脱していないといえそうです)。

 手持ちの"学校文法の"資料で見たら、

  • もつれた糸をほぐす。
  • 壁にかけた絵はだれの作品だ。(てある・ているの意味)

 が「存続」の例とされていますが、後者のほうは現代語の語感としてあまり馴染まないので、もはやあまり使われなくなった形かもしれません。
 書いている途中でshillasalさんからトラックバックを頂きましたが、上の例が一応学校文法的な立場からの返答になるのだろうと思います。たぶん、現在では、過去・完了・存続・確認のうち、「た」によって存続のニュアンスのみが突出して表されることはかなり減り、存続というニュアンスを突出させて強調するばあいには「ている」「てある」を使うことが圧倒的に多くなったのではないかと。
 ついでに「確認」の意味合いが出る例を補足しておくと、国語便覧では「これはあなたのでしたね」が挙げられていました。

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 jounoさんからのトラックバックに戻って、

それと、「報告」という点を抽出してくるのは、ちょうどもとの話題での語用論的なぼくの区別に対応しています。「と思う」と「と思った」の区別は多くの場合、「主張」と「報告」の発話行為としての区別に(必然的にではないが)対応している、というような話です。もっともその話はそんなにこだわりたいわけではなくて、日本語のテンスとアスペクトはややこしいというか、学校文法ってほんと役立たない、という話

 あ、そういう話題もあったのですね。「主張」と「報告」との対応はなるほどと思いまし「た」(←「報告」)。


 学校文法についてですが、記事のタイトルにも書いたようにまず〈英文法からの類推によって日本語の文法を解釈するということについて、ほとんど疑問が持たれないこと〉への問題提起として少し書いてみたようなものなので、学校文法も手がかりとしての有効性は以前有するのではないかなと思います。というか、英文法を無自覚に適用して考えるよりははるかにまし、というか。

 正直いって、いわゆる学校文法よりも明晰で説得的と思える体系を私は日本語に関して構築できておらず、批判する材料を持っていないんですよ。あと例えば『日本語練習帳』に現れている大野晋の学校文法に対する批判や自説はやや的はずれと思える部分もあったし。ただこの部分でjounoさんとの間で何か先鋭的な論争が必要だとは感じていません。


 むか〜しは例えば「(ずっと)前から○○さんのことが好きでした」的なセリフが一般的だったと思うのですが、しばらく前からは「『でした』って過去形じゃん、今はどうなのさ」という疑問が発話者の側に予め組み込まれてしまい、単に「○○さんのことが好きです」というような表現が主流となっているように思えます。この変化は、

  • 「(〜し)た」という表現 → 英語ではいわゆる「過去形」を用いる

 という(やや短絡化した*1)英語の授業の影響が、

  • 「(〜し)た」という表現 → イコール「過去形(過去のある時点に起きたという意味だけを持つ)」

 という日本語への(誤った)理解に反映されてしまっているからではないか。という、確信に似た懸念を私は持っているんですよ。


 一般に国語(ここでは現代文のこと)の授業では文法はほとんど省みられず、また、受験でも軽視される傾向があるので、一部の生徒・学生以外は、英文法からの類推によって国文法を理解しようとするきらいがあるように思います。英文法は比較的、意識的に学習されることが多いので。

 最初にschillasalさんの所にコメントを書いたのは、その、英文法からの無自覚な類推はデメリットが大きいという私の問題意識からでした。

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 あと、余談ですが、「日本語は英語などと違って曖昧だ」という支配的な考え方についても若干疑問があります。それは主に、「英文法を基準とするなら理解しづらい」ということであって、純粋に言語のシステムとしてみれば、日本語は明瞭に組み立てることも十分可能な言語だとも思えるからです。たとえばフランス語よりも基本語彙の数は多く、具体的に事物を指し示すことがむしろしやすいとも思えます。

 昔読んだ話ですが、ある言語は話者と叙述の対象との関係、話者と聞き手との関係、叙述の対象と聞き手の関係、いわゆる「時制」などとの関係で相当複雑な変化をするそうです。それはかなり正確な叙述が可能な言語といえる。そして日本語も「敬語」システムなどそうした要素を多少持っているわけです。

 その意味では、〈日本語そのものの語彙や文法が曖昧だから〉というよりも、〈日本語を母語として用いる人が、伝統的に曖昧な修辞を好むから〉ということの方が要因としては大きいのではないかと以前からなんとなく思っています。


 さらに放談になりますが、日本人は「日本人みたいにいろんな考え方を認める多神教がいい」「異なる価値観を認めない一神教は間違っている」「共存しよう」と簡単にいいますが、じつは「共存」でなく他者を「無視」しており、異なる価値観というものが存在すること自体よく知っていないし、知ろうという意欲も薄い。そのことがたとえば、異なる言語間の文法を流用することのおかしさに無頓着な姿勢につながるのかなとも思いますね。

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 放談はおいておいて、自分が使っている言語体系について理解する道具となるべきキーワード群を自分が漠然と使ってしまっていることに改めて気づきました。
 ふだん使っている母語だけに、感覚を手がかりに探ることで全体像が見えてきそうにも思えますが、自分が触れている用例はやはり偏りがあるし、専門として考えてきた他の人の成果を利用させてもらわないのはもったいないと思うので、以前買ったまま積ん読になっているこの本を読んでみようと思います……が……なかなか時間がなくて読めないかもしれません。


文法 (言語の科学 5)

文法 (言語の科学 5)


 あ、それから一応ここでも書いておきますが、前回の記事にtrivialさんから頂いたトラックバックについては、


[言及元][へぇ〜]「どいたどいた」は,実現確実たる(べき)と強調,認識共有強要,不確定な未来でなく過去的/一人称的二人称と類似

 とはてなブックマークで既に雑感を書きました。話題としてはたいへん面白いのですが、話が膨らみすぎそうなのでこの辺にしておきます。

*1:「た」は英語ではいわゆる現在完了で訳されるべき場合もあるので、全ての場合に過去形を用いるとはいえない