夏の終わりに
何してんの、夏終わっちゃうよ〜(ToT)
という件名のメールが昨年の夏、届いた。このことは[彼方より] 有名人からメールをもらったに書いた。
冬にもちらほら届く。苦笑していたら、今年の春にも届いた。
何してんの、夏終わっちゃうよ〜(ToT)
春なのに。
友人にそのメールのことを冗談で話しながらも、ずっと、少しひっかかりを感じていた。
9月になった今はもちろん、季節の上での夏が始まる前も、既にそんなあせりを抱えている人はいたんだろう。
そのメールに示されているあせりの内容をもっとはっきり言えば、性行為の相手を見つけなければ、という焦燥感だ。本文はこうだった。
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あせりの内容をもう少し一般化すれば、(死ぬ前に充実した生活を送っておかなければならなかったのに、まだできていない)という後悔から急ぎはやる心。この二つは似ているだけでなく、深い部分で通じている。
人間は蝉ではないから、季節の上での夏に何かしておかないと、ということはない。
死ぬまでのその日その日を充実して送りたいのはもちろんだが、それは短い夏の間に蝉が交尾の相手を求めるような過ごし方ではないのだろうと思う。
私自身の「夏」に対する感じ方については夏のひこうき雲 - 『夏の庭』と荒井由実「ひこうき雲」に以前書いた。
けれど人間はいつか死ぬということが身近に具体化した、その事実を契機として、ある不思議な視線を持つに至る場合も、ある。その視線は死者にのみ向けられるわけではない。死の先にある夏の高い空、ひこうき雲として残る記憶の中の死者、コントラストとして浮かびあがる生の決定的な有限性とみずみずしさ。
実際には、その事実を契機として
、上に引用したものとはまったく別の視線を持つに至る場合もある。虚無感からくる焦燥と自棄、絶望、刹那的な快楽への逃避のような。
サムライ・ジャックに出てくる「アク」のように、そうした在り方は非常に魅力的にさえ映る。
何してんの、夏終わっちゃうよ〜(ToT)
夏とは過ぎ去るのをただ待つようなものではない。そもそも夏はやってはこない。それは夏ではない。
自ら作り出す努力をするものだと思うし、その夏はギラギラとしたものではないのだろう。
夏のひこうき雲 - [レビュー][雑記] 冷蔵庫のドアという「夏への扉」
夏のひこうき雲 - [レビュー] 『夏への扉』を再読しました
このWebサイトの名前は今年も、夏が終わった後も「夏のひこうき雲」です。