喘息の記事を読み、『IT』、『幸福否定の構造』、肉体の棘を思った
昼の休憩時間に極東ブログ: 喘息患者の脳は喘息を連想する言葉に反応するを読みました。エントリのコメント欄に少し書こうと思っていたところ、長くなり始めたのでここに書きます。
その前に少しお断りをしておきます。
少なくとももう少し一般的な言葉を用いるのでなければ、あまり理解されやすい話でもないと思うので、その点は読者に申し訳なく思います。
ただ、現時点での私の考えを広く受容してもらうために語彙を選んで巧妙に取り繕うことはどうかと思うので、走り書きは走り書きとしてこのまま残しておきます。
そもそもがあまり「普通の」言葉を使って書くと、受容されやすくなるとしても、よくありがちなスタンスに流れがちになるので、時間や分量との関係で私の筆力を超えるという問題もあります。
似たような事柄はそのうちまた折に触れ書くだろうと思うので、興味のあるかたは引き続き長い目で読んでくださると幸いです。
スティーヴン・キングの『IT』という小説を思い出しました。笠原敏雄『幸福否定の構造』も。
トンデモっぽいことを書きますが、喘息の人は、乗り越えるべきものをそのような形できちんと可視化しているんだろうなと少し思いました。
(乗り越えるべきものというのは、けしてその方固有の欠陥だなどという意味ではなく、人間が普遍的にかつ個人的に抱えるテーマみたいな意味です。)
可視化した結果、自己と他者を区別する免疫システムが、というような。
もうちょっというと、パウロの肉体の棘というのも機能としては類似のもので、本人の顕在意識とは別個に、自分を真摯に追い込んだ結果としてのものかなとも思います。確信などはないし、確信を持つような類のものでもなさそうです。
イエスがある人の身体障害について「本人の罪のせいではない、両親が悪いわけでもない。その人に神の恵みが現れるためである」というような言い方をしていました(引用は不正確ですが、現時点で私がそのような記憶をしている記録として書いておきます。後で正確な表現を補足します)
追記:ヨハネの福音書9章3節でした。引用します(日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用)。
この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
生きるうえでのある種のハードルを課されている人は、それに耐えられる器ということだし、乗り越えることでさらに大きく祝福されるのでしょうね。
もちろん死ぬまで結果的に乗り越えられなくても、そのハードルを課されること自体が既に素晴らしいことです。
何も自分を棚に上げて他人を上から見下してほめているというわけでもありません。
『IT』や『幸福否定の構造』はどちらも意外とWebでレビューを見ないので、そのうちまたちょこちょこ触れる気がしますが、かなり大きなテーマなので書ききれるとは考えていません。メタファー、喩(たと)えを使ってしか語ることができないような事柄なんだろうなと思います。
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昼の休憩時間、終わり。