アスベスト、思考の断片の蓄積による省エネ

 少し更新しておきます。


 最近話題になっているアスベストについては、去年の

[Web] アスベスト石綿)は危険
http://d.hatena.ne.jp/summercontrail/20041015/asb

 と、

[Web][雑記] 11月19日から「世界アスベスト東京会議
http://d.hatena.ne.jp/summercontrail/20041113/asb

 でとりあげた。最近検索して直接記事にたどり着いている方も多くいらっしゃるようだし、記事そのものはそれほど独立の有益なソースというわけでもない。だからとくに改めてここで紹介するほどの価値はないと思うのだけど、一応ご紹介しておく。私としては現時点でも以前書いた上の記事以上の認識はない。疑問に思うのは、なぜ最近になってよく新聞紙面などで話題に上るようになったのかということ。
 まあ、きちんと問題として認識されるようになったのはいいことだと思う(紙面は有限なので、他の問題を報じることとのバーターになるということを考えると一概に全肯定はできないが)。


 最近はアスベストに限らず、読書のレビューなどでも検索でいらっしゃる方が多いようだ。このブログに「web拍手」が送られるタイミングとアクセスの時間的関連を見ても、どうやらそういう過去の記事について検索で発見された方がweb拍手を送ってくださることが多いように思える(詳しくは確認していないし、確認せずにとどめるべきものだと思っているけれど)。
 そのことから考えると、既にある程度私としてはWWWにおいて何らかのリソースを提供できているように思う(傲慢に聞こえるかもしれないが、私としては、この程度提供できていればそれで満足した方がいい、という感覚が強い)。
 そのように、ある程度有益な情報を提供できているという満足感から、この「夏のひこうき雲」の更新意欲があまり湧かないという面もある。もちろん主な理由は本業でかなり忙しいということなのだが。


 ただ、他の人がそんな満足からブログをあまり更新していなかったら「そうお考えにならずに更新してください」、と私も感じる(勝手なものだが)。


 話は飛ぶが、ある種のスティッキーな思考の過程を記し続けることは、それはそれなりに価値のあることだと思っている。
 なんというか、同じ人物が新奇なアイディアを絶えず提示することはできないし、そんな必要もない。むしろその一貫したねばり強い思考の形をその時々で示し続けることによって「あの人ならこのテーマをどう見るか」「あの人の考え方を通してみると、この問題はどういう道筋でとらえるべきか」と考えることができる。
 誰も自分の色眼鏡の色からは逃れられないとしても、他の人の色眼鏡を通して見える枠組みを利用することができるし、実際に色眼鏡を通して見えた枠組みを言葉で示されると、その他の人の色眼鏡を通して見える風景をあれこれ推測・憶測する手間と不正確さが省ける。逡巡する自分の思索の手助けになる。

 あ、こうした話は前に書いた

[Web] 集積していく私の知覚の総体の断片
http://d.hatena.ne.jp/summercontrail/20050331/gw

 に近い視点だな。


 そんなことをときどき、漠然と心の片隅で考えたりしています。