ゲド戦記2『こわれた腕環』のレビューの紹介:書きかけ

 ゲド戦記2『こわれた腕環』のレビューをきちんと書いていなかったが、この記事でひとつの形にしたい。

アーシュラ・K.ル・グウィン(表記はル・グインル・グィンとも)『こわれた腕環ゲド戦記 2』

こわれた腕環―ゲド戦記 2

こわれた腕環―ゲド戦記 2

 以下、書きかけ


極東ブログの記事[書評]こわれた腕輪(ゲド戦記2)アーシュラ・K・ル=グウィンの紹介

だから、テナーは、この世界にただ殺意をもたらすような悪の存在が死に絶えたのではないかと、あたかも現代人のように考える。だが、ゲドはそれを否定する。この世界では、根源的な悪意というものは死んでいないとゲドは語る。

 以下は極東ブログの記事ではなくゲド戦記2からの引用

そうさ。彼らは人間に与えるものなど、何ひとつ持ってはいないんだ。彼らにはものを作る力がないんだもの。彼らにあるのはこの世界を暗くし、破壊する力だけだ。彼らはここを離れることができない。彼らはこの場所そのものなんだからね。ここは彼らに残してやるべきなんだ。彼らの存在は否定されるべきものでもなければ、忘れ去れらるべきものでもない。

 これを受けたfinalventさんの文 だが、ここで私ははっきりと、その殺意を含んだ根源的な悪について、否定されるべきでも忘れ去られるべきでもないことを神話的に了解する。にいう否定のニュアンスも、複雑な意味合いを持っている。

 悪とは本来的に負の価値を持つもの、その意味では否定されるべきともいえる。だが存在を否認するべきではない、現に存在しているから。そしてこの世から完全に抹消しようと試みるべきでもない、この理由は簡単に言えない。だからといって忘れ去るべきでもない、つまり、単に距離をおいて悪と関係のないところでぬくぬくと生活すればよいものでもない。


 再びゲド戦記2からの引用。

決めるんだ。テナー。どちらかに決めなくちゃいけないんだ。

 つまり、(悪は否定されるべきではないが、)悪に身を委ねた存在であり続けるか、それともそうでない在り方を選ぶか、いずれかだ。

 そしてfinalventさんの文。

 アルハとテナーに、同時になることはできない。
 このファンタジーの神話的な問いかけは、私には現代の少女にも投げかけられうるものだろうと思う。しかし、現代でその問いを投げかけるゲドの存在はいないのかもしれない。むしろ、根源的な悪の世界で大巫女として永遠の生命を得るように、アルハであれと呼びかける声のほうが強いかもしれない。

 ケースとしてよく目耳にする。同級生を刃物で刺すところまではいかなくても。混沌とした闇の中で。あるいは強烈な/穏やかな欲望に身を任せる快感と、絶え間なく繰り返される心地よい悔恨の中で。

 そうした闇は、スターウォーズの悪の帝国のようなわかりやすい姿をとらない。むしろ、しばしば母なる自然として映る。

 テナーは、この自分の内面にわき上がるこの最後の殺意から逃れたとき、はじめて自由になり、泣き崩れた。自由は、彼女に喜びではなく、苦しみを与えた。

 彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。

 「こわれた腕輪(ゲド戦記2)」はお子様向けのファンタジーだとも言われている。岩波の訳本には「小学6年、中学以上」とある。そう、この物語を、小学6年にも読んでもいたいとも思う。SFXを駆使した映像としてではなく。


 あるセンセーショナルな事件の当事者を思う。(同時に、しかし単純に飛躍させて敷衍するのではなく)そこにある、或る普遍的な苦しみを思う。

 そして当事者の一部もその家族もまだ生きており、これからも生きていく。彼女は、彼は、おそらく既に自由の重さを知り始めているだろう。
 自由という重荷を担っていこうという決意を持ち続けることができるのだろうか。それが一瞬ごとに問われている。この問いは私にも、読者のあなたにも向けられている、というよりも私たちはその問いに常に向かい合わざるを得ない。


 ただ、ゲド戦記2は、その重荷を分かち合うことも示唆している。テナーはゲドが現れたことによって変えられた。ゲドはテナーの萌芽によって救われた。


 痛みや重荷は減らすことができないとしても、それに耐えることができるようにはなる。連帯はその一つの方法だ。

 むろん、人とのつながりだけによってこうしたことがきれいに解決するわけでもない。孤独とはそういうもの。