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 忘れた頃に更新するレビュー。

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ある晩、その町に小さなツバメが飛んできました。友達らはすでに六週間前にエジプトに出発していましたが、そのツバメは残っていました。彼は最高にきれいな葦に恋をしていたからです。ツバメが彼女に出会ったのは春のはじめ、大きくて黄色い蛾を追って川の下流へ向かって飛んでいたときでした。葦のすらっとした腰があまりにも魅力的だったので、ツバメは立ち止まって彼女に話しかけたのです。

「君を好きになってもいいかい」とツバメは言いました。ツバメは単刀直入に話すのが好きでした。葦は深くうなずきました。そこでツバメは、翼で水に触れながら彼女の周りをぐるぐると回り、銀色のさざなみを立てました。これはツバメからのラブコールで、それは夏中続きました。

「彼女はおかしな恋人だね」と他のツバメたちがぺちゃぺちゃ言いました。「財産はないくせに、親戚は多すぎるときてる」実際、その川は葦でいっぱいだったのです。やがて、秋が来るとそのツバメたちもみんな飛んでいってしまいました。

みんなが行ってしまうと、ツバメはさびしくなり、自分の恋人にも飽き始めました。「彼女は何も話してくれないしな」ツバメは言いました。「それに浮気っぽいんじゃないかと思うんだ。だって彼女はいつも風といちゃついてるんだから」確かに、風が吹くといつも、葦は最高に優美なおじぎをするのでした。「彼女は家庭的なのは認めるけれど」とツバメは続けました。「でも、僕は旅をするのが好きなんだから、僕の妻たるものも、旅をするのが好きでなくっちゃ」

とうとうツバメは「僕と一緒に行ってくれないか」と彼女に言いました。でも葦は首を横に振りました。彼女は自分の家にとても愛着があったのです。

「君は僕のことをもてあそんでいたんだな」とツバメは叫びました。「僕はピラミッドに出発するよ。じゃあね」ツバメは飛び去りました。

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Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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<版権表示終り>

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 葦は(少なくともこの小説に表われている範囲では)ひとことも言葉を発していない。これに対してツバメは(後の方で幸福の王子に見聞きした多くのことを話しているように)よくしゃべる。そのような造型。

 ツバメという語が日本語の「ツバメ」(若くはなく裕福な女性が手なづけて飼っている若い男性?)と同じようなニュアンスを持っているかどうか。Camblidge Dictionaries Onlineで調べたが、よくわからなかった。


 葦について。財産はないくせに、親戚が多すぎるときてる。「貧乏者の子沢山」という言い回しを思い出す。ある程度普遍的な傾向のようにも思える。理由にここではあえて立ち入らない。ただ、たとえとして葦をそのような生い立ちの女性になぞらえるのは上手い。調べたところ、葦は群生するようだ。そしてあまり実りの多いとか青々としたという印象はない。見立てとしては財産がないということになる。

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 物語の流れ。魅力的な腰に惹かれ、夏の間ずっと銀色のさざ波を立て続けるツバメ。動物の求愛行動はよく奇妙な美しさを帯びる。人間も似たようなものかもしれない。

 みんなが行ってしまうとさびしくなり、恋人にも飽き始めるツバメ。みんなが去ったことがポイントだろうか。あるいは一定の時期にエジプトに出発するという習性がポイントか。ともあれ、ツバメの眼には「あら」が見え始めた。だが少なくともここからの下りだけでツバメを「熱しやすく冷めやすい」と評することはできない。ツバメは少なくとも夏の間じゅうラブコールを続けていた。

 風が吹くといつも葦は最高に優雅なおじぎをしていたが、これは物理的なもので、浮気っぽいとツバメが思うのはあたらないかもしれない。そもそもツバメの独り相撲だったかもしれない。しかしツバメが「君を好きになってもいいかい」と言い、葦が深くうなずいたとき、とくに風が吹いていたわけではなかった(風が吹いたととくに書かれていないので、自発的にうなずいたと推測される)。

 少なくとも葦の物腰は優雅に見える。その優雅さは葦のパーソナリティに由来するものとは言い切れない、というよりも美はそれ自体が固有の形をとって束の間、地上の私たちの前に立ち現れる。たとえばある作品が表わす美しさについて、そのアーティストの存在に全面的に依存するわけでもない。もう少し言えば、棟方志功だったか、木には仏様が最初から埋まっている、自分はそれを掘り出すだけというような。不正確だが。
 ツバメは葦にというよりもその美に惹かれていたのかもしれない。そしてそれはツバメの罪でも葦の罪でもない。

 葦は旅をすることができない。葦の主観的な意識としては、自分の家にとても愛着があったということ。あるいは単にその通りかもしれない(旅をすることができないということではなく)。いずれにしても結果としては同じこと。そのことをツバメは決定的な断絶としてとる。同時に、「葦は最初からそのことを知っていたのであり、短い間の付き合いだということがわかっていてイージーに調子を合わせていたのだ」と受取る。それが「もてあそんでいた」という非難。
 高く飛び立とうとする男性と、深く根を張る女性という分け方もできる。
 ここで葦は登場しなくなり、作品中ではツバメが後にひとこと苦々しく話の引き合いに出すだけになる。