書くことをめぐっての続き

 rucciさんとyukattiさんがさらに追記や新しい記事を書かれていました。トラックバックありがとうございました。

 ……いやあ、なぜ書くか、なぜ書かないのかというのは、個人的にはこれは本当にセンシティブな話題で、書けないというかあまりネットのわかりやすい位置に露出させたくないので。「あえてトラックバックしない」というよりも、トラックバックやリンクにまつわることを考慮したくないんですよね。このテーマについてはほんとになんというかひとりごとにならざるを得ませんし。


 それでももう少し書いてみると、なぜ書かないのか。自分だけでなく周りの人を守るためだとか、あるエピソードの関係者全員への(おそらくは温かすぎるのかもしれない)配慮のため、というようなこともあるでしょう。

 rucciさんが「リスクを冒しても、自分の考えを出して誰かに共感してもらう喜びを味わうほうがずっと得だなあ」といった内容のことを「あえて土足で」おっしゃっているのですが、このあたりはブログ時評で団藤さんがおっしゃっていたような事柄とも少し重なるなと思いました。というのは、ある事柄や主張を明るみに出すことで、予想以上のリスクを引き受けてしまうことにもなりかねないし、またそのリスクによって害されてしまうかもしれないのが自分だけとは限らないわけです(このあたりはyukattiさんが昨日の私の記事のコメント欄で賢い人が黙ってしまったことがあった太平洋戦争や第二次世界大戦ナチスドイツの台頭等々と書かれたところでの、いわば発言を抑圧する負の要素でもありますが、そうした「抑圧」というのはただの雰囲気だけではなく、ささいなきっかけで具体的な形をとって迫ってきます)。

 団藤さんは気軽に「誰でもジャーナリスト」と勧めていて、そのことをかなり手ひどく色んな人から批判されていたわけですが、極端に言えば、あまり気にせずに触れた事柄によって数ヶ月後には海に沈められているようなこともある。ここでブログ時評の当該記事にリンクしないのは、団藤さんを取り巻いている(そして一部に団藤さんへの感情的な罵倒が見られる)議論の輪に加わる気がないことも理由です。


 rucciさんが紹介されていた山田ズーニーさんの文章は、私も以前から連載を読んでいるのですが、その文章とは別の側面において、何かを書かない・書けない場合もあるんですよね。けっして「閉じて」おらず、また自意識過剰でなくても。

 私がこのブログでプロフィールをほとんど明らかにしないでいる理由とも重なってくるし、この記事も意識的に抽象的に書いているのでわかりづらいと思いますが、うーん。上に挙げたことも要素のうちのいくつかにすぎません。ていうか読み返して思ったんだけど、他の方向に読みとられてしまうかもしれないな、もともとの文章の下手さもあるし。それはそれでいいや。あーまだるっこしい。


 少なくとも、これまで何かをこのブログに書いてきた理由の多くと、これまで何かをこのブログに書けなかった理由のほとんどは、ある祈りのような秘めた思いと結びついていて、とかいってこれ以上書けないなあ。
 ほんと、文字通り、誰のことも傷つけたくない。偽善的でかっこつけた、感傷的な表現に聞こえるかもしれないけど。この話題はまあこのあたりで。。どうでもいいお話でした。読んで混乱なさるならそれで成功です。それでもアップする点で、自分としては踏み込んでみたつもり。あとで思い直すかも。