日本じゃ「神」は最初からいなかった

 数日前だけど、なんか梅原猛さんが新聞で文章書いてた。原文あたるのがめんどいけど「日本には神がいなくなってしまった」みたいに嘆いてた。梅原猛さんについては前に触れた(このページの上の検索欄に彼の名前を入力すれば出てきます)。すいません、彼のことは以前から念頭にあったものの、とくに名前を挙げて書いたことはなかったようです。いわゆる、一神教ダメダメだー多神教の日本の伝統ばんざい広めようの人。として認識しています。

 引用できるほど正確な言い回しは憶えていないが、彼の嘆きについてはよくわかった。でも、あえて放言としていえば、日本には昔から「神」なんていないよ。


 強い存在と弱い存在がいるだけ。弱い存在が強い存在や他の弱い存在を恐れながら生きているだけ。前にも書いたかもしれないけど、カミとは人間以外の存在すべてを指すみたいな語。らしいですよ。


 彼の「認識」と「ソリューションの方向性」が噛み合っていない気がする。「神」への畏れによって人々の行動が規律されることを望むのなら、“天皇”とか何かを祭り上げることになって、それは「彼が嫌うような」一神教的なものにしかならない。

 そういう一神教的なものへの忌避・嫌悪が強いからこそ、意識を半径数メートルのごくミクロな場にとどめて、実感の持てるそのスペースでだけ生きようとする傾向が強いのにさ。写真によって切り取るのもそう、と、HIROMIXあたりから思っていた。
 その狭い空間の中では、他の人たちからの好悪のみが基準となりやすい。それが「恥」の文化。神の前の「罪」などという抽象的なものを想定することがそもそもおかしいこととされる。(「リアル」と「バーチャル」が二項対立的にとらえられるのも、そのあたりとつながるかな。自分が実感を持てない別の場所でも世界は存在していて、例えば今もアフリカで子どもたちがごはんが食べられなくて死んだりしている。と、これがワンパターンなお題目になってしまうところに問題があるんだろうな。)


 そうでない行き方は、アニミズムというか……往々にしてただの刹那主義的な現状肯定と開き直り・自己弁護の言説にしかならない。それでは人は満たされないから、結果として、むなしい自分探しを加速させる。で、カルト(セクト)が受け皿になる。それを見て「一神教」批判の声が強まる。無力感とルサンチマンも高まる。その繰り返し。


 あと、宗教画について書いている文章を読んだ。なんつうか、比喩的表現って振り回されやすいんだなあと自戒。日本人って「神」とか抽象概念を扱うのに慣れてないのかな、って嫌味とか攻撃じゃないんだけど。

 時代の制約によって、昔のホーリーなイベントしかモチーフにすることのできない場合もあった。そこからそれ以上の事をいうことはできない。いろんな思いを持っていろんな人がいろんな絵を描いてきた。坊主も屏風に上手に絵を描いた。画家の宗教的な熱意による場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。

 なんていうかね。宗教画を見て宗教を語るのは、村上隆の「Miss Ko 2」を見て、巨乳の女性について論評するようなもの。あるいはウォーホルの絵を見てキャンベルスープの味を語るようなもの。


 不可知な事柄への謙虚さを持ちたい。たぶんそれが梅原さんの嘆きの中身でもあり、一つのソリューションでもあると思う。あるいは、抑制されたモデレートな想像力。(抑制されるべきは想像力ではなくて感情。)

 あるいは、不可知とまで行かなくても、自分がまだ知らないことを知らないこととして受けとめる感性というかねー。そこから先、きちんと知ろうと思えたらかなりすごい。知らなくてもいい、おもろいネタだけ知っておけばいいというのが日本の他国への無関心。(津波の被害は、大規模な飢餓や虐殺などと違って日本人も具体的に想像できるから、自分をその立場に置き換えてみることができるから、話題になるんだろうか。それでも民間の寄付額はかなり少ないとも聞く。あるいはそうではないかもしれない。)



 こうした話は丁寧に書くと手ひどい批判に読めてしまう場合もあるし、適当に書き流すことで独り言というスタンスを示しつつ終えるのだけど。


 で、私は、知らないことを学ぶのに精一杯でこの通り書く方がおろそかになっています。もっと面白い記事のクリップに寄ろうかな。

 久々にブラウザ上で書いてみたらノリが違って、我ながらおもしろい。