ハンチング・ワールド(サミュエル・ハンチンとん)

さあ、くだらない記事を今から時間を区切って書いてみよう。うんちにまつわるエトセトラなので苦手な方は続きを読まないでください。

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 まずは極東ブログ: ウンチングスタイル考を読んでほしい。
 ウンチングスタイルに中点がないとgoogleで7000、あると1340のページが浮かび上がる。私の漠とした考えでは、外来語は元の外国語の単語の区切れ目に原則として中点を用いるが、一つの外来語として定着すると中点がとれる。中点は息の切れ目を意識させることもあり、頻繁に用いている間に次第に中点がわずらわしく感じられるようになるのだろう。ウンチングスタイルは外来語、あるいはカタカナ語としての普及期を過ぎ、既に“枯れた”語であることが浮き彫りになる。そのうちモボ・モガと同じく、シニフィエと共に消え去るウン命なのかもしれない。


 うしろすがたのしぐれてゆくか   山頭火

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 ところで上記極東ブログの記事のコメント欄に、

あと、ラジオの女性パーソナルティーが、西洋式の場合で、出が悪い場合は、片足を便座に引き上げて、ある種、半ウンチングスタイルにするといいと言っていた。どうぞ、お試しあれ。あはは。

 という投稿を見た。つまりハンチングスタイルだ。私は半跏趺坐(はんかふざ)を連想した。座禅を組むとき、結跏趺坐が無理な人のためにやや崩した形として用意されている座り方だ。
 もっとも私はウンチングスタイルには熟達しているものの、結跏趺坐や半跏趺坐には手こずっており、座禅については門外漢なので、これは半跏趺坐に関する適切な説明ではないかもしれない。詳しくは、こんなこともあろうかと思って(うそ)ブックマークしておいた坐り方の実際あたりでも読んで参考にしてほしい。とくにあご肉のあたりに注目したい。座禅ってこんなに大変そうだったのね。

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 私はまた、サミュエル・ハンチンとんの著作『ハンチング・ワールド(HUNTING WORLD)』をも思う。文明の衝突はまた、排便の身体技法という生活に深く根ざした伝統的な慣習のぶつかり合いをも不可避的に伴う。このとき東洋の叡知はあるいは「腰は人体の要也」としてウンチングスタイルに固執し、また西洋の理性はあるいは水洗便座(ウォシュレット)という科学技術によって本来の耐用年数をとうに越えた人体をも労るであろう。かくして世界は引き裂かれていく。
 しかしハンチンとんは、ここであらたな解決策を提示している。すなわちハンチングスタイルだ。

あと、ラジオの女性パーソナルティーが、西洋式の場合で、出が悪い場合は、片足を便座に引き上げて、ある種、半ウンチングスタイルにするといいと言っていた。どうぞ、お試しあれ。あはは。

 私たちは相互理解の試みを続けることで問題を昇華し、より美しい結論へと至ることができる。世界というお尻はたしかに二つに割れているが、それは見かけ上のことにすぎない。ハンチング・ワールド。奇しくもエリック・プランクとんが「チン時・ザ・ワールド」という曲でこのことを暗示している(く、苦しい)。半跏趺坐(はんかふざ)、てーげーの精神で進もうではないか。頭にはハンチング帽、くちびるには歌を。

 この「3」の段落は全体的に投げやりなうそであり、養老孟司や一連のニューエイジ的融合論および安易な価値相対主義みたいなものをやや揶揄したものです。お笑い漫画道場で描かれたドカンに住む家族の絵のように、世相をチクリと批判です。「チクリと批判」という表現自体にユーモアとペーソスがあふれていますね。書いている途中でつまらんくだらんと嫌になりながら急いで仕上げた、MajiでKaiた傑作だよ(広末より)(うそ)。あとサミュエル・ハンチントン文明の衝突』は読んでません。ええ読んでませんのです。