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 少し継続的に、オスカー・ワイルドの小説『幸福の王子』について書いてみようと思います。

 息切れしないように、作品のはじめから、ほんの少しずつ、扱っていきます。ひとり読書会のようなものを考えています(といってもわかりづらいですね)。


 なお、「幸福な王子」というフレーズで青空文庫を検索すると、有島武郎による翻案『燕と王子』(作品・作家データは図書カード:燕と王子を参照)が見つかりますが、結城浩さんが原作から翻訳された『幸福の王子』の方に深みを感じたので、『幸福の王子』をテキストとして用います。


 では、はじめます。

幸福の王子
The Happy Prince

オスカー・ワイルド
結城浩


町の上に高く柱がそびえ、その上に幸福の王子の像が立っていました。王子の像は全体を薄い純金で覆われ、目は二つの輝くサファイアで、王子の剣のつかには大きな赤いルビーが光っていました。

王子は皆の自慢でした。「風見鶏と同じくらいに美しい」と、芸術的なセンスがあるという評判を得たがっている一人の市会議員が言いました。「もっとも風見鶏ほど便利じゃないがね」と付け加えて言いました。これは夢想家だと思われないように、と心配したからです。実際には彼は夢想家なんかじゃなかったのですが。

「どうしてあの幸福の王子みたいにちゃんとできないの」月が欲しいと泣いている幼い男の子に、賢明なお母さんが聞きました。「幸福の王子は決して何かを欲しがって泣いたりしないのよ」

<版権表示>

Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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プロジェクト杉田玄白正式参加作品。

<版権表示終り>

 まずはここまで。

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 最初の一文。とくになし。輝かしくきらびやかで、高価な像。町の上に高くそびえる柱の、さらにその上。人々にとって見上げる存在であるということだ。

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 次の一文へ。最初の一文からの延長で、王子は皆の自慢。そして市会議員の描写が複雑な味わいがある。
 芸術的なセンスがあるという評判を得たがっているが、実際には彼は夢想家なんかじゃなかった
 これはもともと芸術的なセンスもない(まして夢想家でもない)という、市会議員について否定的な表現とも読める。他方で、夢想家ではないからそう思われる心配などいらないのに、という、市会議員に対する擁護と温かい視線ともとれる。

 市会議員はその地位の性質上、世評を気にしなければならない。そして実務的(夢想家ではない)というイメージを持たれなければならない、だから、「もっとも風見鶏ほど便利じゃないがね」と付け加えたくなる。
 しかし、(同じように世評を気にして特定のイメージを抱かれたいのか、あるいは職業とは無関係に元来の芸術への指向性と微笑ましいセルフイメージゆえか、その両方かはわからないが)芸術的なセンスがあるという評判を得たがっている。このようなキャラクターへの、作者のニュートラルな視線を感じる。

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 次。賢明なお母さんの、幼い男の子への問いかけ。よくある「誰々のようにしなさい」という言い方、という意味では否定的な印象を読み手としては抱く。


 しかし、何かを欲しがって泣く子どもに対して接する際、〈そんな風に何でも欲しがるものではない〉〈世の中はなんでも思い通りになるものではない、むしろ思い通りにならないことばかりだ〉ということをいつかは伝えなければならない。(赤ん坊にとっては周りのすべてが自分のために動く、自分の思い通りにならないことはないと思い込んでいる。自分の思い通りにならないと泣く。自分の限界と弱さを知るのが大人になるということだろう。)

 〈そんな風に何でも欲しがるものではない〉と伝えるときに、優れた人を心の中に思い起こさせ、「あの人のようになりたいでしょ?」「あの人ならどうすると思う?」という働きかけは非常に有効に思える。あの人が実際にそうできている、ならば自分もできるはずだ、という希望が生まれると、そこにピグマリオン効果の生じる余地が生まれる(ピグマリオン効果の本来的意味は少しずれるので、ここで持ち出すのはかなり勇み足だが)。


 しかし、話はさらに屈折するのだが、「なんで誰々みたいにちゃんとできないの」という言い方はやはり否定的に響く。ただその母親としてはその時点での精一杯の気持ちであり、また幸福の王子は子どものライバル的存在ではないから幼い男の子にそれほど悪くは伝わらないはずだ。

 そして、幸福の王子は実際、決して何かを欲しがって泣いたりしない。後の部分で出てくるが、生きていたときは、ほしい物は何でも周りにあったから、泣く必要もなかった。そして像になった今でも、何かを欲しがって泣くのではなく、何かを与えることができないから泣く。そして作品の最後、神さまは黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろうとおっしゃっているから、やはり王子は何かを欲しがって泣いたりはしない。だから幼い男の子にとって反発は少ない。真実だから。


 男の子の友だちの名を挙げて「誰々ちゃんはちゃんとできるのに何であなたはできないの」という言い方だったら、「誰々ちゃんだってわがままなときがある」「自分はそれほど劣っていない」という反発が出てくるだろう。この賢明なお母さんは、比較の対象の選び方も適切であり、またけして誇張は語っていない。


 今回はここまで。