今回の地震に関連して―善とは何か、偽善とは何か
タイトルは大きくふりかぶってみましたが、この視点について語ること自体が人を腐らせる危険があるのでごく簡単にすませたい……のですが、無理でした。
なぜ腐らせるか。自分は偽善者ではないか?という問いに対して苦しんでいるうちに、自分が善を為そうという意欲がなくなり、また他人をも猜疑心で見てしまうようになるから。
そのような(意欲をなくし、他人を猜疑心で見てしまうような)心境というのは、はっきりいって不幸という概念のシンプルな存在様式。クリスマス・キャロルのスクルージおじさん(の、「改心」前)のような。しかもその不幸は、伝染する。猜疑心と憎しみと「いいかっこしやがって」というねたみは、いわば裏返しのペイ・フォワードとして広がっていく。
偽善者と呼ぶ怨嗟、ルサンチマン
これ(すぐ上の段落で書いたこと)は私にとって個人的に重要な課題なので、id:TomCatさんの偽善者という記事が響きました。Tomcatさんが私は「偽善者」という評価が好きだ。
とおっしゃるのは、「私は偽善者と言われているようだが、偽善者というのは罵倒になっていない、むしろうれしい」という決意表明と私は読みました。
私の以前からの視点でいうと、「評価の上では、行為と主体をいったん切り離す」「安易に主体への評価を行なわない」ということになります。
「偽善者」だとか「売名行為」と言ってくる人の頭の中では、暗黙の内に
- 「いいこと」をする人=「いい人」だと周りから評価される
- だから「いい人」だと評価されることを期待して、「いいこと」をする人がいる
- その期待が醜い
という図式が成り立っているのでしょうが、
- 「いいこと」をしても、必ずしも「いい人」だと評価されるわけではない(反発する人も多い)
- 「いい人」だと思われることを期待して「いいこと」をするのではない、むしろ反発も覚悟している人の方が多い
- むしろ、上のような図式でとらえる人の内面が醜い
と私は感じています。
id:TomCatさんの偽善者という記事は、現代において善悪を量ることの困難さといった、私とはまた別の出発点から書かれています。善悪の価値基準を喪失した者にさえ善に見える。このことが大切だ。
という部分についてあえていうならば、「それは善に見えるかどうか」ではなく、「それは客観的な善か」という点を(人間には知り得ないとしても)追求するのがまず大前提として大切だとは思いますが、基本的に同感です。
その善悪の価値基準を喪失しないこと、“投げない”こと。
はてなキーワードの「ルサンチマン」の解説から引用すると(このキーワードの解説にはいろいろ示唆を得たのですが、それはまた別の話として)、ルサンチマンとは「弱者」の奴隷道徳は、「あいつは敵、迫害者だ」だから「あいつはわるい」ゆえに「あいつと対立するわれわれは正しい」という憎悪
であり、他者の否定から悪をモデル化し、その否定、反対者として善をモデル化するとして、後者の善の基礎にある怨恨感情
とのこと。
他人を偽善者と罵る根底にはこうしたルサンチマンがあるように思えます。
平成16年新潟県中越地震と、義援金と、「偽善」
話を今回の地震の義援金というテーマに戻します。id:yukattiさんの[Life][hatena] はてな義援金窓口にもご紹介があるのですが、
id:finalvent:20041025#p4
チャリティなんて動機はなんでもいいのだという割り切りがないってことは、逆に、動機さえよければチャリティの結果はどうでもよいということでもあるのだろう。
や、
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20041024#1098615404
これで、たぶん、はてな、は、対社会的にひとつのコミュニティになるのだろうなと思う。
日本では、まず、若い世代の不定形な善意からはじまるというのはいいことだと思う。ある意味、政治性などいらないからだ。
に納得します。そしてid:yukattiさんご自身の、阪神大震災の記憶として
直接のボランティアでなくても、遠くからの義援金や救援物資であっても、「自分たちは見捨てられていない」「助けられた」という気持ちを与えてくれ、勇気づけてくれたように思う。
という文に力づけられました。スーダンのダルフール危機の問題について何度か似たことを書いてきましたが、その一点において、私の関与にもなにがしかの価値があると思っています。それがなければ私のここでの言及など、あまり、価値がない。
あなたのことをほとんど知らないけれど、あなたの痛みを私は自分の痛みとして感じている。遠くにいる私たちがそう感じられるかどうか。またその思いが伝わるかどうか。(もちろんその現れとして当然、生存に必要な物資や配慮が現地に届けられることになるのですが)
つけたし、あるいはまとめとして
偽善者という言葉は、しばしば漠然と「自分のことを善人だと思ってもらいたがる人」といったニュアンスで使われますが、本来は「善人のように見せかけているが、じつは違う人」と、もっと狭い意味で使うべきでしょう。
そして、見せかけの結果としての善行であっても、その「行為」は「主体」とは切り離して考え、やはり行為自体は評価されるべきだと考えます。評価される側から言わせてもらえば、私という主体などどうでもいい。「いいこと」ができればそれでいいじゃないか、と。
もう一つ。義援金は元々は義捐金と表記されるもの。これは本筋とは関係ない、まあどうでもいい話です。ちなみに私のATOK15でも、最初に「義捐金」と変換されました。
最後に。今回の地震については、まだ足りないであろうとはいえ、注目され多くの人の目が向けられています。そういう認識に立ったとき、いま私としては直前の台風の被害の方が気になります。
大勢(たいせい)の中でどういう発言が有益かといった視点( [Web][雑記] セカンド(あるいはサード)・オピニオン参照)だけでなく、上に書いた、痛みと孤立感を持つ人への連帯という観点から、気になります。