どんぐりこ

ドングリ問題という記事を目にしました。私もちょうど別のきっかけで、ドングリ問題に関心を持っていたところ。

読売新聞のサイトの記事クマにドングリ、福井は中止…生態系に影響との指摘でから引用。

計画を知った保科英人・福井大助教授(昆虫学)が「小動物の異常繁殖や、在来ドングリの遺伝子を乱す危険もある。現状では、捕獲して山に帰すのが最善」と協会やボランティアに指摘。その結果、ボランティアらも参加をためらうようになり、協会の判断で福井県での活動中止を決めたという。

協会の森山まり子会長は「私たちもクマの専門家の助言を受けながら活動しており、成果に自信を持っている。ドングリをまく活動は続ける」と話している。

これは最初読んだとき意味がわからなかったのですが、福井ではやめる、他県では続ける、ということなのでしょう。自信を持っているなら、福井県で参加をためらっているボランティアを説得して福井県でも続けるのが筋だと思うのですが……。意地悪く翻訳すれば「福井県では挫折したけれど、私たちの活動に自信を失いたくないから他の県では続ける」ということか。

読売新聞の記事は

富山県では22日、協会の男性会員(61)が東部の山中にドングリをまいた。

と終えています。


swan_slabさんは

こうした状況は、日本人の自然観が反映しているといえるだろうが、生態系管理という考え方そのものが日本ではあまり浸透していないことが大きい。

と述べていらっしゃいますが、同感です。昨日の記事世界を制御できる、というのではなく、制御する義務がある、と考えるのが西洋人だと思うと書いた私の視点からすると、ドングリ問題は自然に対する日本人の甘えでしょう。人間が介入することで自然に「どの程度」「悪影響が」及ぶのか、把握しようとしない。「自然の力は偉大で人間の力はちっぽけだ」と思い込みすぎている。昔の典型的な公害もそこから来ているのでは。


ペットや動物を猫かわいがりして駄目にしてしまうような風潮も、大きく言えば似たところがあると連想しました。善意だから許されるという、他の生物に対する人間の傲慢というか。鳩や野良猫に餌をやるのは、じつは、鳩や野良猫をむやみに増やしたり、生き物の数のバランスを崩すことになるという自覚がない(持つことを拒絶する)。
もちろんそれが優しさの発露であることは間違いないのですが。優しさをどう表わすかという点でも、相手に優しくあってほしい。