下書き

EP : end-point  科学に佇む心と体: 人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈

細かい(と思えるような)部分や、視点、立ち位置、用語の理解のほんの少しの差によって、大きく方向がずれてくる類の話題。なのでしんどいけど、やる気があればちゃんと書きます。

  • 人格障害」という述語は、そもそも「人格」+「障害」と理解してよいのか?前提としてここで大きくずれるように思う。cf.精神科医による用語説明:人格障害反社会性人格障害境界例DSM-IVでは「境界性人格障害」という診断名
  • 〈西洋〉/〈東洋〉というキーワードは、この種の議論において有効か?
  • スタートレックに登場するボーグのキャラクターは、東洋よりも共産主義、あるいは全体主義ソ連を念頭に置かれたものに思える。時代状況からも。そしてここでいう全体主義とは、〈東洋〉として言及される場依存性だとか総合的という意味ではなく、均一的あるいはファシズム的なもの(ボーグのキャラクターが)
  • 『木を見る西洋人 森を見る東洋人』については、Passion For The Futureで紹介されていたのを読んで、小段落単位で少し感想を手元で書いたことがあった。まとまらなかったので掲載していなかったけど、今回試みにそのまま載せてみます。あくまで草稿、やる気があればちゃんと書きますということで。

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか


Passion For The Futureは相変わらず知的刺激になる記事が多い。
それは私にとって、紹介されたすべての本の論旨にすべて賛同できるというわけではない。

■世界は名詞の集まりか、動詞の集まりか

『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』の著者は、西洋は名詞中心、東洋は動詞中心としているようだが、ここは率直に言って論拠が誤っていると思います。むしろ逆に、<日本語は、おおむね名詞から動詞ができており、これに対してたとえば英語は動詞から名詞ができている>とさえいえます。
英語は動詞中心であり、逆に日本語は名詞の状態を別の名詞などによって記述することが多い、といえそうです(記述される名詞はあえて明示されないこともあります)。
ここは具体例を挙げるのがだるいし説明のためのジャルゴンが覚束ないので、少し考えてみていただきたいところです。

食事−食事する
eating−eat

「春は曙」

反対の考えも成り立つということなので、ややラフな説明ではあります。中国語も英語と同様、動詞中心の文型ですし。

■関係性を大切にする東洋人

関係性を意識的に分類するのが西洋人、関係性の中に「自然に」委ねていくのが東洋人、となら言えそうです。

■世界を制御できると思う西洋人

世界を制御できる、というのではなく、制御する義務がある、と考えるのが西洋人だと思う。ここはまた反発が多そうだが、積極的に環境保護をしようとする意識が高いのは西洋だと思う。
中国で木が乱伐されているらしいが、木の激減と公害をも、自然の関係性の中に委ねていくのは東洋人的発想だと思う。極論するなら、「人間も自然の一部だから滅びるなら滅びるだろう。木も同じ」という発想だ(もちろんそれは表立って声高に主張されるわけではない)。
こうした発想の違いは、究極的には歴史的地理的文化的条件に由来するのでしょう。

■分析的思考、包括的思考

ここはその通りだと感じる。


他の国からどう見られているかが気になるという意味で、日本人ほど日本人論が好きな国民はいないと言われます。アメリカ人はアメリカ人論を気にしないだろうし、中国で中国人論はあまりブームにならなそうな気がします。

一昔前は、「日本人はここがダメ」という否定的な論調の日本人論が流行しました。その結果、日本は経済的に大きな飛躍を遂げました。

経済的な挫折を味わった日本では、「日本はこういうところが素晴らしいじゃないか」「西洋文明の限界が見えてきた」という論調が多い。そして狭量で排外主義的なナショナリズムが勢いを増しつつある。自信喪失の裏返しとしての、自意識の肥大。自信を失う必要はないが、過信や虚栄心は有害です。

西洋では、“禅”が一過性の流行ではなく一つの思想として定着しつつあり、日本や東洋の文化の「精神」を謙虚に取り入れようとしています。日本ではどうか。根底にある思想を理解せず、西洋の科学技術のみを表層的に導入したのでは、技術に振り回される危険があります。“和魂洋才”を貫いてもよいが、“洋魂”を理解しないと洋才も扱えない。

『武士道』を書いた新渡戸稲造は、その点でも優れた日本人だったのでしょう。これは「明治人の気骨を持て」とかいう浅はかな精神論ではありません。


上に引用した覚え書きの繰り返しになるが、〈西洋〉/〈東洋〉で二分する論調に私が反発を覚えるのは、たぶんその根底に、自意識の肥大みたいなものを見て取るからだと思う。
荒野(あらの)の宗教・緑の宗教―報復から共存へみたいな本にも見てとれる。
(この本についてちょっとだけ書くと生存困難な荒野(あらの)で、絶対的な神をつくり上げた一神教世界。そこでは<厳格な戒め>の下、神による救済が説かれ、報復が神の名の下に肯定される。という内容紹介など、単純に大きく間違い。聖書の「(神のセリフとして→)復讐するは我にあり(=復讐は人間の仕事ではない)」や「七度の七十倍許しなさい」「右の頬を打たれたら……」といった語句、つまりむしろ徹底して許しを説いている点を看過している。)


ただ、地理的的諸条件の元で宗教が形成されたことには、大いにうなづける。歴史的・文化的、あるいは政治的要因も大きい。そしてこうした要因の元に形成されたのは宗教だけではなく、人種や民族などの特徴もそうだ。また文化や歴史や政治、そして気候にまでフィードバックされていく。


たぶん、地理→宗教→行動という、上部構造/下部構造みたいな、一直線上のヒエラルキーとして捉えるような発想や、単純な二分論的割り切りに私は反発を感じるのだと思う。


地理(ここでは気候や食べ物も含めて)も、文化も歴史も政治も、宗教も、宗教以外の他の思想形態(広義に哲学?)も、すべて相互に絡み合い、行動に反映される。また行動が地理・文化・歴史・政治・宗教・他の思想形態に反映されていく、というように複雑な相関関係を示している。と私は考えているのだろう。


お茶を濁すようだが、そういう意味では私は〈東洋的〉な発想なのかもしれない。
そしてさらに話を混乱させるようだが、そうした諸要素はいちおう分離できるし、またいったん分離して分析的に考えなければ何もわかったことにはならないと思っている。その意味では私はきわめて〈西洋的〉だ。

さらにひっくり返すと、東洋の思想でも、諸要素を分離し、名づけ、論理操作を行なっているといえるから、やはり〈西洋〉〈東洋〉というキーワードは有効ではなく、この2つのキーワードを使って考えるのは得策ではないように思う。