宅間死刑囚の記事を読んで考えたこと

「創」という雑誌の11月号に、宅間死刑囚への死刑執行に関連した記事が3本ありました。

その記事を読む前に、宅間死刑囚が獄中結婚をしたこと、また他にも宅間死刑囚を慕っている女性がいたことを私は聞いており、複雑な思いを抱いていました。結婚が5回目らしいということも聞いていました。

さらに獄中結婚をした女性はクリスチャンと聞いて、私はいっそう複雑な思いを抱いていました。うまく言えないが、他者の弱さを憐れむ思いと恋愛感情を混同してしまう人の心情、まただめんずウォーカーの連想から、気持ちの優しい人が“悪い”人に引き寄せられていくという構図に私は心を痛めていたのです。


ここまでの話はいずれも風聞であって、真偽がメインではなく、それを受け取った私の感覚についての話です。


雑誌「創」の記事には、その獄中結婚をした女性がアムネスティに関わっている(いた?)こと、結婚によって宅間死刑囚と社会との接点となろうとしたこと、またできるならば遺族に対する謝罪をしてほしいという意図もあって結婚したことが示されていました。雑誌を見て確認すると、

彼女は元々アムネスティの活動に参加しており、宅間死刑囚との獄中結婚も、そうした活動の延長にあったと見られる。結婚をして石鹸や文通の権利を確保するというのは、以前から行なわれてきたことで、彼女の場合は、何とか宅間死刑囚に遺族への謝罪をするよう説得するという意図もあったようだ。

それを知ってなぜか私はほっとしました。
ほっとしたのは、おそらく、女性が冷静な理性の判断「も」持って結婚した、と私が思えたからでしょう。
ただ、本人の手記によると死を知ってワアワア大声を上げて泣いたりといった面ももちろんあったようです。


記事を読む限り、宅間死刑囚は奥さんへの感謝やその他人間らしい点もありました。元弁護人のインタビューを引用すると、

でも奥さんの崇高な行動に報いたいという思いもありまして、1月頃の手紙には彼女を「先生の畑に連れて行ってやってください。土いじりはおもしろいのは知っています」と書いていました。何かお返しがしたいと。そういう気持ちはあったんですね。

人間の善とは何か、悪とは何か、悪をなす心性はどういうものか。いろいろ考えるところがありました。たいへん興味深い記事だったのでお読みになると良いかと思います。


思ったことをつけたし的に書きます。
私たちが悪を行なう人を憎むのは、「悪」が“悪い”ものだからというだけではない。
私たちが善い行いをする人のことを思ったとき、その善い行いをする人の心境が想像され、そのとき快い感覚に包まれる。
同様に、悪を行なう人のことを思ったとき、悪を行なう人の心境を自然と想像し、いたたまれなくなる。その荒廃した内面世界を理解できないのではなく、理解できるように思ってしまうからこそ憎む。(そして、「悪人」が改心したように見えると、やはり心境を想像して自分の事のように嬉しくなる。)
という側面もあるように、ふと思いました。


記事にあった、宅間死刑囚が獄中結婚した女性に送った、最後の手紙から。

訴訟に勝てたら、君に少しでもお金を残してあげることができるね。もう空想で、ウルトラ・ライト・プレーンに君を乗せて飛ぶしかない! 今から三重の松坂へ行って、二人で一緒に空を飛ぼー!