なるほど

文脈からいってあるいは失礼にあたるかもと思うので、とくに引用元を明示しませんが、以下の言葉に感銘を受けました。

偉そうに言って敗北主義じゃないかと失笑されてもいい。それは本当にそれでいい。ただ、それでも私が言うなら、本当に困難な時、くじけるなよ、シニスム(冷淡・批判主義)に陥るなよ、それは絶望の思想形態なのだからな、と。

その辺りの文章を読んでみて、私は個人的に他にも大きな収穫がありました。黙して語らない大衆、あるいは(≒すなわち)“大衆の原像”とでもいうべき存在のために、大衆を擁護するために、(一見もっともらしいが人を駄目にするような)形式的な論理・思想に対して、立ち向かうこと。それが知識人の役割なんだろうなあという、重要な示唆を与えられました。
知識人というのは、大衆の対義語ではなく、大衆と対比されるべきものでもない。草インテリだとかそういう言い方も、つまりは知識人が本来あるべき姿をうまく言い表そうとしているという意味で結局同じ事なんだろうなという感想を持ちました。


私自身は知識人とはいえず、またここに書いているようなこともあえて自分の専門分野とは異なることばかりにしているのですが、何のために書くか、という……いや、違うな。「私がインターネットで書く目的」に限った話ではない。
言葉にできずこぼれ落ちるもの、多くの人々があえて言葉にしないもの、それを〈世界に対する、言葉による乱暴な分節〉から、守るということかな。


そうした文脈から見たとき、そのかたの苛立ちや、知に対する期待と失望、そして知が抜け落ちても私は私だという不思議な感慨が、いっそうわかる気がしました。そして私にとって新しい思想の地平が開けた気がします(こういう表現が適切かどうかわかりませんが)。
ここをご本人が見てらっしゃるかどうかわかりませんが、ありがとうございます。