小林秀雄『考えるヒント』について:メモ

新装版 考えるヒント (文春文庫)

新装版 考えるヒント (文春文庫)


まだ読みかけ(といっても何度も昔読みましたが)。まとまった文を書く余力もないので箇条書きでメモ。今回は収録された文章のうち「言葉」と題されたものについて。

  • 昔、本居宣長の「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉についての、小林の解釈の意味がよくわからなかったが、今回わかった。後半がポイント。言葉はさまざまな価値意識の下に、雑然と使用されているが、歌は凡そ言葉というものの、最も純粋な、本質的な使用法を保存している。自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、考えてみよ、諸君は心によって心を静めることができるか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。
  • わかりやすいところだけを引用すると、単純化されすぎて駄目だな。
  • 自分なりに簡単にまとめると、「」やっぱり無理。簡単にはまとめられない。一部だけを取り出して試みるなら、うずまく感情(「意」)をととのえ、他者と共有するという「礼」がそこから始まる、ということか。


……誤解を避けようとしていくとやはりメモにはならないなあ。


ものごとを考えて書く文章においては、死ぬまでずっと小林秀雄の模倣に終わってもいい、そうふと思った。
これは小林秀雄を知らない人にとっては小林秀雄を持ち上げた言葉に聞こえるかもしれないが、私はむしろ私の思い上がりだとも思う。小林秀雄とはそういう存在。


模倣する中でも、私には同時代性、私の今世の人の似せようがあるし、小林が宣長の言葉を引いていうとおり「歌道ばかりは、身一つにあることなり」。つまり個性というのは「おのずから」生ずるものだ。
たぶん、いろんな分野での(広い意味での)クリエイターたちも、〈先人の成し遂げたことの大きさの前で、自分の作品になんの意味があるか?〉と自問しながら、同じような境地に着地していると思う。同時代性と、自分からにじみ出る個性に賭けていると思う。(個性とは無理に育てたり差異を殊更に強調するようなものではなく、積んだ果実から自然とにじみ出てきた極上のオリーブオイルのようなものだろう。)


まあ『考えるヒント』以外の作品をちゃんと読んだことはないので、現時点での感想です。