臓器提供カードを書きながら

机を整理していて、この前もらってきた臓器提供の意思表示のカードを発見。1998年から持っているが、紙が古くなると別のカードに書き直している。

今回前のカードを見る前に書き始めて、手が止まった。心臓停止を待たずに脳死判定に委ねてよいだろうか。まあいい、別にそれほど生きていたくもないし、使える臓器がそれだけ増える。
死に顔が崩れるのは弔ってくれる人たちに悪いという思いもあり、以前は眼球は提供しないと指定していた(このことは見なくても憶えていた)。目はいいほうじゃないし。
だが今回は項目すべてに丸をつけ、さらに「その他」に「すべて(提供する)」とした。使いたい人がいるなら拒むほどのこともない。葬式に支障ないよう代わりの球ぐらいは入れてくれるだろう。というか、眼球がなければないで支障のないように弔うだろう。

見たら免許証に貼れるシールタイプのもあったので、それも書いて貼った。

しかしこの臓器提供に関する私の意思表示が実際に問題になるような事態はなるべく避けたい。
他人だけでなく自分の身体も大事にしていきたい。
無価値感の裏返しとして死によって人の役に立つような事態を望むようなことは、あってはいけないな。
自分でそこまで視野に入れる必要はないのだろうけど、ふとそう思った。脳死判定に懐疑的な立場をとりながら自分は脳死判定に委ねるというのは、つまり自分の命を大事にしていないあらわれのように思えた。