朝日新聞万博フォーラムと、いわゆる一神教/多神教

(この記事は適当に書き流したので適当に読み流してください。記事の具体的箇所を示した上での議論は歓迎しますが、私の人格に対する漠然とした感情的反発はやめてけれ。
なお、おたずねがある前に予め記しておきます。私の今日の夕飯はちらし寿司です。これは無意味なジョークです。それ、蛮勇を持って更・新!)


「万博フォーラム 地球市民文化と日本の文化」の模様を読んだのですが、まず地球市民文化という言葉遣いからしてある種の強固な思想的背景を感じる。ただしこうした用語はとくに意識しないで用いている人も多いのでまあおいておくとして、徳川さん(美術館長)あちゃーという感じ……。本当によく見聞きする、ありがちな考え方。http://www.asahi.com/sympo/chikyu/12.htmlここでの下り。やや長い引用になりますが、引用元はかなり長いのでこの程度は許されると考えます。

今、世界の3大宗教というのがあります。これは、いずれももとのセム旧約聖書に出る人名。ノアの息子)から生じているもので、一神教ですね。一神教というのは宿命的に排他的なんですよ。我以外のものを指して神と呼んではならんという戒律がございまして、排他的でなければ一神教というのは成立しないんです。

 ところが、今、新しい一神教がもう一つ生まれ変わっているように私は思うんです。その宗教の名前はアメリカン・デモクラシー、あるいはアメリカン・フリーダムというんです。これは新たな世界の一神教のような気がします。これをアメリカは新たな自分の国の宗教として、世界に、これこそ真理だ、これこそ唯一の宗教だとして押しつけようとしてしまっていると。あるいは、時には中国も、毛沢東、あるいは、今でもまだ現存していますけれども、江沢民宗教とでもいいましょうか、そういった一種の一神教的な思想で、ほかの考え方を認めないと。これはまずいですね。地球の上に波風を立ててしまうばかりだと。

 先ほど申しました、お互いに根本的な理解ということは、これは難しいです。そうではなくて、それぞれの国やそれぞれの民族にはそれなりの価値観もある、美意識もみんな違う、それに自分たちは賛成するというのではないけれど、それはそれぞれあるんだということを認める、そこからスタートすべきだと。

 そして私は、繰り返しますけれども、日本のように、完全なものというのは最初からあるものではない、いや、むしろ人間というものは不完全なものだと。芸術、美術にしてみれば、芸術、美術とて完全なものはない。それを見る人との総体的な関係において宇宙というのは成立するんだといった哲学を我々日本人は伝統的に持っている。この哲学は大事にしたいし、もっと世界に広めていい見方じゃないかと思っています。

アメリカ・日本、一神教多神教という分け方はひどく大ざっぱで乱暴だし、グローバリゼーションや戦争への賛否表明という観点でいうとヨーロッパが抜けているのはあまりに痛い。ヨーロッパのエコロジー反戦をどうとらえるかはきわめて重要だと思う(無条件に持ち上げるわけではないが)。


 上に引用した認識は或る意味でたしかに当たっているけれども、こういう「アメリカ=一神教=傲慢=ダメ」「日本=多神教=寛容=世界に広めるべき」という構図は歴史的にみてひどく間違っていると思う。そしてそのような構図に見せているのはアメリカのブッシュ政権による巧妙なリードによるもの。さらに言えば、ブッシュ政権内も一枚岩ではない。日本でも小泉政権を支える勢力内で各種宗教団体や利権団体が絡んで複雑に抗争を繰り広げているのと同じ(現在のアメリカではそれがかなり複雑なようだが)。


「日本=多神教」「西洋=一神教」という分類にそもそも問題があることについて。
仏教は極端に幅が広いが、本来的に一神教を志向していると考えられるし、もっといえば仏教に神はいない。さらに放言すれば、原始仏教には本来「仏」という超自然的な存在もいないように思う。
多神教と呼ばれる日本の神道は、実際にはどうか。「八幡!」というかけ声は。日本における「征夷大将軍」という地位はなんだったのだろうか。そして国家神道廃仏毀釈はどう考えているのだろうか。
そしてカトリックは仏教と同じく、各種聖人などの位階を設けていて多神教的。よくいえば非常に寛容であり、悪くいえば、かなり早い時点で、「多神教」側から攻撃対象として想定されているような「一神教」のスタイルを失っている。「宗教改革」も併せて想起されたい。
それから、もとのセム旧約聖書に出る人名。ノアの息子)から生じているものである一神教つまりキリスト教ユダヤ教イスラム教は、まったく同一の神を信仰している。これは基本的な事実でありながら、たぶん大多数の日本人は知らないんじゃないかと思う(追記:ついでにいえば、世界の「三大宗教」と呼ばれるのはキリスト教イスラム教・仏教だ)
ギリシア神話ケルト、こういったものを視野に入れない主張はやはり説得力に欠ける。


それから、日本が「多神教」というのは、西洋的な「神」が多数いる、ということではない、むしろ西洋的な「神」がいない、ということだと思う。指針がない。だからやむにやまれずにある種の救いを求めて、薬物に走り、性に走り、暴力に走り、食欲を壊し、身体を改造し、あるいは新興宗教に走る。あるいは自殺する。(こういった状況は「神は“死んだ”」といわれるアメリカやヨーロッパでも似ているが。)だから「多神教」という状況の陰には、諸手をあげて喜べない、ある深刻な問題が横たわっている。
「宗教はアヘンだ」といわれるが、民衆に「アヘン」は必需品だ。宗教がないとき、民衆は別のアヘン、つまり本物のアヘンに走る。それはアヘンよりもっと危険な薬物であったりする。


そして、日本は寛容というよりも単に相手を知らなすぎる。和魂洋才というときに、貪欲に「才」技術だけを取り入れて「洋魂」つまり思想を知らない(一般論ですよ)。
相手を知りもしようとせずにあいまいに笑って受け流すのは、単に失礼だと思う。そして相手の考えを相対化し、「多神教」という実体のないパラダイムにすべて一元化しようとしていく。これこそ「自分が絶対」という発想ではないだろうか。(説明は面倒なので避けるが、一神教を批判する側もじつはニューエイジ的汎神論という別の罠にはまっている気がする。ここは微妙でよくわからない。その意味で徳川さんの「新しい一神教」というのは重要な示唆だ)


人間は不完全なものだ、ということを知って、だから努力しようというのが西洋だとすれば、人間は不完全だということさえ「把握」しようとせずに自然の中に委ねていくのが日本かもしれない。ナウシカがあえて滅びという運命に委ねたように。


異なる文化・文明間の対話という概念をもし想定するとするならば、「議論を喧嘩に発展させない」この一点のみが重要だ。その点においては日本人は弱いように感じる。だから議論すらしない。これは相手から見てとりつく島のない態度だし、ディベート以前に、ネゴシエーションが下手といわれるゆえんだ。


それでも徳川さんを擁護する意味で、あえて失礼を承知でいうのだが、名字や肩書きから見ても「日本ばんざい」といいたい地位にあるのかもしれない。それは理解できる。


日本の「誇り」を取り戻そうとする偏狭なナショナリズムの動きには、傷つけられたと感じているナイーブな心理があって、それは排外主義と強く結びつく。日本のこの状況を見ても、「一神教」とは別のレッテルが必要であるように思う。仮にレッテルが必要として、の話だが。
日本の文化を広めようとするということはたいへんよろしいことだ、しかしそれはエバンジェリックに洗脳するということでなく、単に知ってもらおうとする努力でなければならないと思う。
同時に、相手の考え方を個々にまず知ろうとする姿勢が先に立つべきだと思う(これはアメリカの一部の勢力=キリスト教原理主義に対しても言える)。


私は神道をけなすわけでもないしキリスト教を持ち上げるわけでもない。また、日本をおとしめるわけでもなくアメリカを礼賛するわけでもない。
単に、単純な「多神教一神教」という二元論の発想で西洋をおとしめ、神道と日本をやたらと持ち上げたがる人たちの言動に違和感を感じるだけだ。


かつての日本には新渡戸稲造のような知性がいた。現代にも多くいるはずだ。言論人として反発を恐れずもっと発言して、この状況を改善してほしい。私のような小さな者にいわせないでほしい。

もっとも、「日本は偉い、すごい、一神教の奴らは馬鹿だ」と愚痴ることでほどよいガス抜きになるのなら、それはそれで論駁しないでおいた方がいいのかもしれない。それが良き「アヘン」として機能するのならば(そしてこの透徹するような私の視点が、私に石が飛んでくる一因でもある)。