[レビュー] マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の、訳者解説を読みました

マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫ISBN:4003420934

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

の、訳者解説について。本文は途中で挫折しました……。私にとって今、これを読む必要をあまり感じられなかったのかもしれません。

(こういう本については、興味のある人は私の稚拙なレビューを参考にするまでもなくお読みになっているでしょうし、興味のない人は単に私のサイトへの興味も失うだけでしょうから、かなり虚しさも感じます。ですが、その中間にいる、つまり潜在的な興味は持っている方々に向けて、あくまでご紹介というスタンスで。)


404ページあたりからの訳者解説を部分的に抜粋します。

なお、抜粋にあたって少し注のようなものを添えさせてください。

  • 「世俗内的禁欲」という概念について訳者は、400頁でたいへんな行動力を伴った生活態度あるいは行動様式なのですとし、また、401頁でつまり、あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまって――だから禁欲です――そのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む、こういう行動様式が行動的禁欲なのですと説明しています。
  • ウェーバーの用いる「エートス」という概念については、訳者の解説による私の理解では、ひとまず「純粋な内面における倫理・道徳規範ではなく、客観的な社会心理、人々の行動の原動力として機能するもの」と受け取っておけばよいように思います。
  • ジョン・バニヤンというのは『天路歴程』という有名な、信仰的な寓話的小説の作者で、郊外の貧乏な鋳掛け屋であったと言われています。


「世俗内的禁欲」のエートスの持ち主たちは、さきにも説明したように、小商品生産者、の中にいちばん多かった。ジョン・バニヤンなどがその典型です。
こういう人々は、金儲けをしようなどと思っていたわけではなく、神の栄光と隣人への愛のために、つまり、神から与えられた天職として自分の世俗的な職業活動に専心した。しかも、富の獲得が目的ではないから、無駄な消費はしない。それで結局金が残っていった。残らざるをえなかった。
ピュウリタンたちはそれを自分の手元で消費せず、隣人愛にかなうようなことがらのために使おうとした。その精神がどこまでそのまま伝えられているか分かりませんが、アメリカの金持ちたちが財団を作ったりするのは、そういうことの名残だと言われています。

ところが、結果として金が儲かっただけではない。他面では、彼らのそうした行動は結果として、これまた意図せずして、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会機構をだんだんと作り上げていくことになった。そして、それがしっかりとでき上がってしまうと、こんどは儲けなければ彼らは経営をつづけていけないようになってくる。資本主義の社会機構が逆に彼らに世俗内的禁欲を外側から強制するようになってしまったわけです。こうなると信仰など内面的力はもういらない。
こうして、宗教的核心は次第に失われて、世俗内的禁欲のエートスはいつとはなしにマモンの営みに結びつき、金儲けを倫理的義務として是認するようになってしまった。これが「資本主義の精神」なのです。

このように宗教的倫理の束縛から解放されると、「世俗的禁欲」のエートスは、資本主義の社会機構の形成という方向に向かっていっそう強力な作用を及ぼしはじめる。そして産業革命を引き起こし、ついには資本主義の鋼鉄のようなメカニズムを作り上げてしまった。そして、いまやこの鋼鉄のメカニズムが自己の法則によって諸個人に一定の禁欲的行動を外側から強制するようになる。「資本主義の精神」は資本主義を作り上げる方向に作用してきたけれども、いまやその「資本主義の精神」自体さえも次第に忘れ去られていき、そして精神を失った「天職義務」の行動様式だけが亡霊のように残存するにいたった。が、ついに、それさえも消え去っていこうとしています。それがいわゆる「イギリス病」ではないか、と前段でコメントしておいたとおりです。


ここまで訳者解説の抜粋でした。いやあ、おもしろい。以下、私の漠然とした感想。


イギリス病という言葉も最近はとんと聞かなくなりましたが(って私はいったい何歳なんでしょうね)、今の日本人が、職業に対する姿勢や仕事に自らを傾ける理由・やりがいを見いだせなくなっており、アパシーに陥っているとすれば、そこに「イギリス病」と同じ構図が見てとれるような気がします。


自分がやりたいことってなんだ?と考えたとき、即物的な快感を追い求めることではない気がする。人は次第に即物的な快感にたいへんな虚しさを感じるようになり、悪い意味での無常観・ニヒリズムに陥ります。
では社会貢献か?そこにある種の嘘くささを感じて生理的に嫌悪する人もいるでしょう。
仕事には興味がなくても、余暇が楽しければいいか?それも一面の真理を突いていると思いますが、つまらないと思いながら仕事を続けるのは個人にとっても社会にとっても大きな損失だとも思います。

まあ私が万人にとっての(あるいは現在の日本人全員にとっての)回答を与える立場にいるわけではないし、そんな回答も持っていません。<自分にとってやりがいを感じることができ、また誇りを持って取り組めること>に、力を注いでいけたらいいですね。


あと、ウェーバーすごすぎ。よっ、知のグリーン・ジャイアント!(いや、グリーンにとくに意味ないけど)。
儒教道教」や「ヒンズー教と仏教」という大部の論文を著わすほど、アジアについても詳しいし。


それから本当はこういう見方は邪道なのですが、キーワードの大塚久雄(←このリンク先)にある略歴を見ていたら、大塚久雄さんは30代後半で上腿部から左脚を切断されたようですね。長期療養といった記述も何度か出てきます。
私がなぜか大塚久雄さんの文章から感じた優しさ(昨日の記事参照)は、こうした経験によって培われた人格からにじみ出たものだったのかもしれません。
もちろん、苦しい・悲しい経験によって人はねじけてしまう場合も非常に多い。だから、私のぼんやりとした尊敬の念は、その経験にではなく、経験を乗り越えた人格に対して向けられています。依然としてどういう人かほとんど知らないので、ぼんやりとではありますが。