悪を避けられないものとして受け取る感性と「火垂るの墓」

ワニ狩り連絡帳(id:crosstalk)の、[映画]  『誰も知らない』 是枝裕和:監督という記事に触れて。

私は「誰も知らない」を観ていないのでなんともいえませんが、以下の表現に少し考えさせられました。

 わたしがこの作品を認められないのは、元の事件、もしくはこの作品の状況の背景にある「暴力*2」の存在をうやむやにしてしまっているから、と言ってしまっていいのかもしれない。次女は信じられないような暴力的状況の下で死に至ったのであり*3、この状況は『フランダースの犬』ではないのだ。この作品を現代版『火垂るの墓』などと評した人もいたが、野坂昭如の「反戦小説」を骨抜きにしてしまって、お涙ちょうだいファンタジーにしてしまった高畑勲の製作姿勢と、是枝裕和の製作姿勢とは、たしかに共通するものがあるだろう。

注の*2や*3はここではとくに触れなくてもすむと思いますが、映画「火垂るの墓」(ASIN:B000232BR0)についてそのような捉え方があったか、と気づきムムと感じました。一定の説得力を感じます。


ここから私の少し雑な考えを書きます。

暴力や悪といったものを、ただ外側から来るどうしようもなく避けられないもの・因果として避けられないものとしてとらえ、「天災」のように受けとめる発想というのは、日本においてのある伝統の一つなのかもしれない(やたらと日本の特殊性を強調する日本人論がはびこる風潮は好みませんが)。すべてを構造の問題に解消していく姿勢は、人間の自由な意志への尊重につながりにくい。


ただ、その他方で、何か事が起きると発生する犯罪者や特定のグループに対する糾弾や感情的非難もかなりのものだ(これは日本特有かどうかはわからない)。

こうした糾弾や感情的非難の背景には、国外でなく国内の人・団体に対して向けられることが多いことから考えると、「自分たちの中にそんな悪い奴がいるなんて耐えられない」「恥をかかせた」という感覚があるのかもしれない。つまり、自分(たち)の中に悪が存在しうることを認めたくないという感覚。

もう一つの背景としては、これまでの「すべてを構造の問題に解消していく姿勢」に対する反動もあってのことかもしれない。ここから外国人排斥の動きが出てくるのかもしれないが、少し考えると外国人排斥は、上の段落で述べたことも理由だろう。異物として排除、という。


人生万事塞翁が馬、という故事(あるいは格言)は、「いいことが起こっても悪いことが起こっても、結果は本人の責任ではない」という意味に受けとめるべきではないように思う。ウェーバーのいう責任倫理という概念を思い出す。どうにもならない部分があっても、その部分をも引き受けて踏みとどまる。


「遺伝と環境(歴史)と本人のせい」というときに、本人のせいという部分を軽視してしまってはいけない。
かといって感情に流されて人格そのものに対する断定的な評価を与えてもいけない。誰かを全面的に賛美する人は、誰かの存在価値を全面的に否定してしまう危険が大いにある。