人格・体験の個別性と普遍性、言及の困難さ

[書評]私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界(クリスティーン ボーデン)

あまりfinalventさんの文章に頻繁に言及するのは良くも悪くも絡んでいるみたいというか、(昔の意味での)「クネクネ」みたいで気が引けるのですが、少し考えたことを。

「私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界」という本については、これまでなんどかここで書評を書こうかと思って、そのたびごとに読み返し、ためらい、そして断念した。書きたいことはあるがなにも書けない気がした。が、少し書いてみよう。と記事の中でfinalventさんがおっしゃる書きにくさについては、私も似たものを感じるときがあります。
全く違う理由かもしれませんが、私が何か書こうとするときに感じる書きにくさについて、あるいは書けない気がする事柄とその感覚について、少し。

  • 人の苦悩というのはまったくひとりひとりの個人的な体験であって、それを類型的にとらえ分析してみせたりすることは具体的な生身の人間としての相手を無視するような態度に映る。また実際傲慢だととられても仕方がないことなのだろう。
  • しかし、人間である以上、時代を問わず、また地域を問わず苦悩には普遍的に存在する種々の要素がある。しかもその要素が見えたことを大いに活かせるケースがある。そして、人間がものを考えるのは、まさに見えてきたものを時代や地域を超えて活かすためではないかと私は思う。科学、思想、哲学、技術、宗教。“知”は、快楽としての側面をのぞけばすべて実用のためのものだ。
  • その見えてきたところを明確な言葉として提示し、さらには一定のソリューションを示すと、そこには必ず「こぼれ落ちるもの」とでもいうべきものに関する抗議が起こる。提示する主体が宗教上の教義でも政治上の政策でも学問上の学説でもそうだ。これは良い悪いではなく、また提示内容の当否にかかわらず、ただ起こるべくして起こる。
  • しかし私たちはメディアを通じて、広告・映画・音楽・小説から既に多大な、また過大なまでのメッセージを受けている。それらは断片的で断言的だが明確な体系化を伴っていないため、あまり反発を受けていないのだが、メッセージの伝達機能、一定の価値観のプロパガンダとしての機能はそれだけいっそう強い。

(…少し方向がぶれてきた)

  • それゆえに明確な分析は強く反発を受けるわけだが、じつは必要とされているものであって、……

まあいいや。私にはこの件に関して的確に書くことができません。


私が難しい問題に関して言及するのを躊躇するのは、いわば読む眼が肥えてしまっているせいで自分の表現能力に満足できないのも一因だろうとは思います。
形容の仕方、読みやすくこなれた言い回し・語順・論理展開、漢字と平仮名の選び方、例えの量と質。
推敲に推敲を重ねていけばましにはなるんだけど、そこまで時間と労力を掛けていられないしね。


だからこうして優れた記事・文章を紹介していくのがまあ自分の役割かなあと。

ていうか頭が痛いのでもう休みます。