ルサンチマン、快適さ、「負け犬」、痛み

このところ極東ブログに目を通すことができていなかったのですが、スーダン・ダルフール虐殺問題と日本、そして日本のブロガーという記事に今朝、アンテナ*1で気づきました。
昨夜スーダンについての記事を書いた私にとってはタイムリーだったので、目を通していたところ、極東ブログ内の[書評]負け犬の遠吠え(酒井順子)という記事にひできさんが最近寄せておられたコメントが目に止まりました。*2

ひできさんのコメントより

なんというか、「現代」というくくりの中に、「快適な生活との引き換えなら、ルサンチマンなんてなくたってかまわないよ」みたいな感じがあるのだとすると、どうも私には居心地よく感じられません。元に戻って酒井さんの考えにも共通するのかもしれませんが、この「いまそんなに間違って生きてるわけじゃないんだから、後先を真剣に考えなくたっていいじゃない」という感じが、やばいように感じてしまいます。

この「いまそんなに間違って生きてるわけじゃないんだから、後先を真剣に考えなくたっていいじゃない」という感じが、やばいように感じてしまいます。その「感じ」に対する「やばい」という懸念は、私も感じます。そしてその「やばさ」というのはかなり広い範囲に渡って根を張っているのではないか、という見方を採ります。
これも「負け犬」論と同様、下手な書き方をすると無用な反発を招きかねないデリケートな話題ですが、触発されたので少し慎重に論を進めてみます。


 この「やばさ」は、私が「悪しき相対主義」だとか「行きすぎた個人主義」だとか呼ぶものにあたるでしょう。また、東浩紀のいう(技術的な用語・概念としての)「動物化」とも重なるように思います。

メモ:

  • はたして実際に「いまそんなに間違って生きてるわけじゃない」のだろうか。
  • 「いまそんなに間違って生きてるわけじゃない」という感覚はどの時代の人間も同じように感じる“普通の”感覚なのではないか。
  • ある時代の・ある地域の“普通の”感覚が、振り返ってみると大いに「間違って」いたという事実はいくつかある。人命についてすらそう。
  • 「後先を真剣に考えなくたっていいじゃない」といわれている対象は、はたして「真剣に」といわれるほど深刻な在り方だろうか。
  • 「いまそんなに間違って生きてるわけじゃないんだから、後先を真剣に考えなくたっていいじゃない」と感じている主体の在り方について、どうとらえるべきか。一般に言葉や論理は自己を正当化する方法としてよく用いられるが、そうした視点からは誰が発するのに似つかわしい発言か。


いわゆる「負け犬」の話題に戻すと、「負け犬」というキャッチーな語感は、多くの人を話題に巻き込み、可視化することには成功しました。しかし著者の酒井順子の主張とは別の所で無用な反発を招きすぎてしまい、悪い意味で一人歩きしてしまっているように思えます。

『負け犬の遠吠え』は目次しか読んでいないので、酒井順子を批判も肯定もせず、この程度にとどめておきます。(実際に読みもせずに評価すること、とりわけ感情的な評価をすることがこうした議論のすれ違いの原因になっているので。)


なお、文中の呼び捨ては作家や評論家という公的な存在に対する慣行に従ったもので、他意はありません。

*1:登録したページの更新をチェックするツール

*2:ひできさんとは私が以前http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/06/power_laws_webl.htmlあたりで「べき乗の法則」や宮沢賢治についてなど意見交換させていただいた方です。