貧困のサイクルか…


 5つのWebブラウザを用途に応じて使い分けています。そのうちの一つの起動が遅くなってきたので、ブックマーク(Internet Explorerでは「お気に入り」と呼ぶアレ)を整理しようと思い、古いブックマークを表示してみたら、DQNと言語相対論と教育 (2004-02-26)という記事が(ページのタイトルは「憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記」です)。

 さっきサピア=ウォーフ仮説についてのページを呼んでいたので、少しつながった。言語相対論(言語と人間の思考・文化の関係に関する仮説)についての短く読みやすいページ和文。月刊『言語』大修館書店 2001年10月号に掲載された文章のようです)へのリンクも発見して、トクした気分☆

 言語相対論の中の「強い仮説」は、子供が(ゼロから)言語を習得することが可能という事実によって否定されるとして、では…ってそんな話は私の戯れ言よりもThe Sapir-Whorf Hypothesisと上のリンク先を読んでもらえばいいので、DQNと言語相対論と教育 (2004-02-26)の話に戻ります。


 この前昼ご飯を食べていたら、横の家族連れの客がなんかひどかった。楽しくはしゃぐ小さな子に、その子の父親が「うっせ」「てめえうっせえっつってんだよ黙れコラ。ああ?」と何度もすごい言い方。少し困った声で。
 子どもは慣れているのか泣いたりはしていなかったけど、横にいた私のほうが少しつらくなりました。その子がどんな風に育っていくかかなり予想がついたし。同じような口調の同じような「DQN」になっていき、同じような「DQN」とつるんで、同じような「DQN」と結婚するんだろうな、と。

 その子の父親は横の客の私に配慮して「静かにしろ」と子どもに言っていたのかもしれないけど…。


 という経験を、DQNと言語相対論と教育 (2004-02-26)を読んで思い出しました。そのページの「DQNと言語相対論と教育」の前後も読んでみると興味深いと思います。やや形式的な論理に流れがちな傾向と、社会構造に対する突き放した見方は気になるものの。