近代文学は本当に「終わった」のか
という新聞記事を見ての感想。というかまあ冗談。熊野大学特別セミナー「中上健次と近代文学の終わり」の様子の簡単な紹介のような記事です。
「グローバルなマーケットでは、『世界の中心で、愛を叫ぶ』みたいな癒し商品の論理しかない。大学の文学研究だって地域研究になってしまっている。制度としても、即物的にも文学は終わった」というのは浅田氏。しかし「『ハリー・ポッター』のような世界市場の商品は、ほっとけばいい。いばらずに、こつこつやればいい」と楽観的にも語るのだ。
ここだけ最初に目に入ってきたとき、「浅田次郎さんスゴいこと言うな!」と驚きました。自分の作品を自分で虚仮(コケ)にしてるんだなあ、と。“泣かせの浅田”“癒しの浅田”が。
冒頭に戻って見てみたら違いました。
浅田彰さんだった。浅田次郎さんがそんなこと言うわけないか。。
記事の内容自体には、なるほどなと思わされました。青山真司さんの言葉、
「目をきらきらさせたアジアの少年を出してWASPを喜ばせるようなことはしない。グローバリぜージョンにさらされ続ける映画作家としては、必然的に、どう抵抗するかが生きがいです」
「歴史の終焉」が言われる今、文学が「終わった」と言われるのもある意味で正しい。ただ、津島佑子さんが60年代後半に文学を志したころ、そのころすでに、文学なんて古いとわかっていた。でも、開き直って小説に向かった
とおっしゃる姿勢を、個人的には好ましく感じる。
…私は浅田彰も中上健次も津島佑子も、本人の著作はほとんど読んでいないのでその辺の話題は期待しないでください。青山真司に至ってはどういう活動をなさっているのかも存じ上げていない始末。