熱中、路チュー、セカチュー、ピカチュー


 「熱中時代」は水谷豊主演でした。間違えた。


 熱中するものなんてあるわけないよ、という虚無主義は絶望にのみ至る道。
 なんでもそれぞれ好きなものに熱中していればいい、個性が大事、という極端な(ここ強調しときます)価値相対主義も同じ。そしてこれが今の世の中であまりにも一般的なものの見方。
 実際問題として「口を出すのが賢くない」からといって、理念として「どんなに愚かなことをしていても放っておくべきだ」とはならない。ザインとゾルレンを無邪気に同一視してはいけない。
 何がいいか悪いかなんて判断するものではない、という反論こそまさに価値相対主義にとらわれた考え方。


 たとえば殺人は悪い、これは一応の共通認識。強盗もそう。
また、真摯な同意があっても同意殺人罪(または承諾殺人罪)。既にこのへんから異論がありそうだが、一応日本の法律、つまり社会規範としてはそう。
 ではやくざの指詰めは?これは指を切られる人の同意があっても傷害罪とされる。
 覚醒剤の自己使用は?これも犯罪。一時的な本人の快感というメリットを考慮しても、本人や他の人にとってあまりにも多くのデメリットがありすぎるから。

 こうして積み上げていくと、判断の難易度は別としても、物事についての客観的な善悪は存在すると実感できる。


 もはや常識とすらなってしまっている<いきすぎた個人主義>には徹底して反対します。
 そして同時に、同じ時代背景の下で<いきすぎた個人主義>へのアンチテーゼとして増長している、権威主義やカリスマを中心とした全体主義にもやはり、断固として反対します。

 ドイツで変態とネオナチが互いに排除し合いながらどちらも勢力を伸ばしつつあるのと似ているな。
そしてその背景には、経済や政治における挫折と、もはや右肩上がりの成長が(国としても家庭としても個人としても)見込めないことへの深いあきらめがある。


 一時的な快感に埋没したり(セックスやアルコール、ドラッグ、あるいは例えば衝動的な買い物による達成感)、内的世界に逃避したり(ヨガなどの大部分にその危険が大きいことはオウムの例でも明らか)。逆に集団に埋没したり(ネオナチ、民兵など。また一般に問題視されていない例としてはスポーツチームのファン集団など)。

 成熟し独立した<個>であることは、この世相ではひどく難しい。しかし自由とはたいへんにすがすがしく、心地よく、そして長持ちする在りかただ。