パターン/フラクタル図形(ex.マンデルブロー集合)/曼陀羅/ゲシュタルト

 あほな記事が続くと、自分の中で健全な?揺り戻しが働いて、話題のバランスを取ろうとします。


 「書評のメルマガ」vol.173で、ウィリアム・ギブスンが新しく発表した小説『パターン・レコグニション』についての文を読み、少し触発されてとりとめもなく考えたこと。


 私たちは、混沌とした現実の中に一定の規則性、秩序、あるいは“美”を見いだす。それは私たちが、生物=つまりエントロピーに抗って生きるつかの間の存在として規定されている以上当然のことかもしれない。


 “美”を追う際、大きく分けて2つの方法があるだろう。
自分の内的世界にひたすら没入していってそこに“美”を追い求めるか。あるいは見いだしたという感覚を外化し、操作可能な対象にすることによって“美”をしっかりとつかまえようとするか。
 大ざっぱにいって前者が精神世界/密教/禅みたいなイメージ。後者はいわゆる近代科学のイメージ。


 グレッグ・イーガンの中編小説『理解』にある、ゲシュタルトが私を呼んでいるという有名な言葉を想起する。


 パターン・レコグニション、つまりパターン認識はならばそのいわば前期か。ただ、それは上に挙げたどちらの方法においても重要なのかもしれない。


 芥川龍之介の『侏儒の言葉』における、地獄についての描写も連想。飯を食おうとすれば必ず燃えて食えない、というような(むしろその規則性に安堵する)。人は混沌と混乱にこそ耐えられない。


 この文章に主張や結論はありません。