「けまらしい」という感覚

 これは元の記事のコメント欄にも書いたのですが、「けまらしい」という表現をわざわざ作らなくても「疎(うと)ましい」でよいと思いましたし、日日ノ日キを読んで「なるほど『妬(ねた)ましい』が当たっている」と思いました。

(追記:「疎ましい」は自分はああしたくない、という方向性で、「妬ましい」は自分もああしたい、という方向性、と分けることもできそうです)

 しかし問題なのは(追記:ここでのテーマは)、新語を充てるのが妥当かどうかという点ではなく「あの人たちが仲良くするせいで私が不快になる」という気持ちについて、ですね。おそらく。


 これについてはARTIFACT@ハテナ系が考察を加えています。が、もう少し考えてみると、<「仲良くしている様が見せ物になると思っている(ように見える)」点>というよりも<パブリックな場であるということに無頓着に、内輪話に打ち興じている点>が不快感を与えるのかもしれません。

 たとえば、今村ねずみが主宰するザ・コンボイ・ショウは常連向けの内輪ネタが多いといわれていますが、それはそれで成り立っているようだし、それを聞いても特段の不愉快は感じない。その輪に加わろうとは思いませんが。

また吉本新喜劇なども<仲良くしているさまが見世物になっている>という点では同じですね。多かれ少なかれ演劇にはそういう要素があるでしょう。だから、ネットやはてなに特有の感情ではないと言えます。(ちょっと話が入り組んできますが、「疎ましい」や「妬ましい」という感情が発生する典型的な状況は、むしろクラスの中で女の子同士がついたり離れたり、ってところかも)

 少しずれますが、携帯電話での通話がなぜ受入れられないのかということと一部共通すると思います。私的なコミュニケーションを公的な場で行なっている、という点で。


 はてなやいわゆるブログ形式のサイトは、開かれた場として設定されている感覚を閲覧者に与えるため、ネットの中でもとりわけ(内輪で仲良くしている様子が)奇異に見えるのでしょう。