google副社長(日本法人社長)の『村上式シンプル英語勉強法』と夏目漱石「現代日本の開化」

 数日前に『村上式シンプル英語勉強法』を読んで、英語学習法以外のところが心に残っていた。そこにさっき夏目漱石の講演録「現代日本の開化」を読んで、ちょっとつながった気がした。

図書カード:現代日本の開化

 村上憲郎さんは


 確かに、もしかしたら英語でしか国際社会とコミュニケート出来ないのはよくないことかもしれません。しかしその「よくないことだと思う」という主張でさえ、英語で言わなければ伝えられないのが現実なんです。
 と英語の学習を強くすすめながらも、139頁では

 たとえばアメリカで開かれた外国人との会議の席上。そこで日本人同士だけど気心は知れてない、面識もないほかの会社の駐在社員と会ったとします。こういうとき、おたがいにすごく気まずいんですよ。気まずいというか、恥ずかしい。
 お互いに外国人に受けようとして一生懸命に英語を話しているわけです。お互いに恥ずかしい日本人を演じてる。しかもそのときの相手の気持ちが分かるがゆえに、何とも気恥ずかしいんです。
(中略)
たどたどしい英語のくせに強引に自分のことを話す、いい大人が汗をかきながら会議でカタコト英語をしゃべる……。見ようによっては、アメリカ人に媚売って、太鼓持ちみたいなことして、ゴマをすっている……ように見える英語なんです、最初のうちは。
 私も日本に来た外国人のアテンドなどでは、エンターテイメント英語ばかりでしたから。正直なところ「コンチクショー!」と自己嫌悪に陥ることもありました。「オレは一体何をしてるんだ」と内心忸怩たることも何度もありました。
 と苦い思い出をにじませる。ジョークをおぼえておくといいという内容の項では

 内容も、戦争の馬鹿らしさを笑い飛ばすような内容で、チョットだけ知的な雰囲気もあり、日頃、「英語の下手なやつは馬鹿だ」と思ってるようなたまにいる馬鹿なアメリカ人、つまり、ノリオは馬鹿だと思ってるヤツに話して、溜飲を下げていました。
 とあるので、実際アメリカ人の側からもそういう視線を感じたことがあるのだろう。

 先ほどたまたま夏目漱石の講演「現代日本の開化」を読んでいて、日本の置かれた状況は今でもそんなに変わらないなと感じた。夏目漱石は講演の導入や文章もうまいしパッと見て受けた感じよりも意外と読みやすいので、ぜひ全文を読んでみて欲しいのだけど、引用するとすればたとえば以下のようなところ。


こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草(たばこ)を喫(す)っても碌(ろく)に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨(うま)そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸(ひさん)な国民と云わなければならない。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。

 もっと全面的に英語や西洋文化を受入れざるを得なかった国や地域にはまた別の困難と屈辱があるのだろうけれど、なまじ日本には独自の言語による文化を維持できるだけの土台があっただけに、日本人のなかで国"際"の場にいる人にとっては悔しい思いや辛い思いをすることも多いのだろうと思う。漱石の時代も、現代も。個人の苦難というだけでなく社会の制度や文化にも、西欧のそれの受容の仕方に無理があったりひずみがあったりというのは感じる。

 とはいえおおざっぱにいえば今後ますます日本人は世界に向けてより開かれていかなければいけないのは、たとえば邱永漢も別の角度からおおいに励まされているとおりなのだろうし、国内からのものとは別の視点をも得た日本人が新しい日本をまた少しずつ作っていくのだろうと思う。

 もともと『村上式シンプル英語勉強法』を読んで上記の部分が印象に残っていたのは、日本が置かれた状況などということではなく、快活に語る中にも苦渋がにじむ大人の感慨のようなものを感じたからだったのだが。