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 忘れた頃に更新するこのカテゴリー、前回の記事は2005年11月6日付。1年以上経ちましたが、皆さんそろそろ忘れてくださった頃でしょうか。私はたまに思い出してしまっていました。もっとも、それだけが更新の間が空いた原因ではありません。


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でも、翼を広げるよりも前に、三番目の水滴が落ちてきて、ツバメは上を見上げました。すると――何が見えたでしょうか。

幸福の王子の両眼は涙でいっぱいになっていました。そしてその涙は王子の黄金の頬を流れていたのです。王子の顔は月光の中でとても美しく、小さなツバメはかわいそうな気持ちでいっぱいになりました。

「あなたはどなたですか」ツバメは尋ねました。

「私は幸福の王子だ」

「それなら、どうして泣いているんですか」とツバメは尋ねました。「もう僕はぐしょぬれですよ」

「まだ私が生きていて、人間の心を持っていたときのことだった」と像は答えました。「私は涙というものがどんなものかを知らなかった。というのは私はサンスーシの宮殿に住んでいて、そこには悲しみが入り込むことはなかったからだ。昼間は友人たちと庭園で遊び、夜になると大広間で先頭切ってダンスを踊ったのだ。庭園の周りにはとても高い塀がめぐらされていて、私は一度もその向こうに何があるのかを気にかけたことがなかった。周りには、非常に美しいものしかなかった。廷臣たちは私を幸福の王子と呼んだ。実際、幸福だったのだ、もしも快楽が幸福だというならば。私は幸福に生き、幸福に死んだ。死んでから、人々は私をこの高い場所に置いた。ここからは町のすべての醜悪なこと、すべての悲惨なことが見える。私の心臓は鉛でできているけれど、泣かずにはいられないのだ」

「何だって! この王子は中まで金でできているんじゃないのか」とツバメは心の中で思いました。けれどツバメは礼儀正しかったので、個人的な意見は声に出しませんでした。


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Copyright (C) 2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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プロジェクト杉田玄白正式参加作品。

<版権表示終り>

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 翼を広げるよりも前に、三番目の水滴が落ちてきて、ツバメは上を見上げました
 「雨よけにならないんだったら、像なんて何の役にも立たないな」と悪態をついてある程度気が済み、「もっといい煙突を探さなくちゃ」と気持ちを切り換えたところにまた落ちてきた水滴。何も言わずに、あるいは何か言う前に上を見上げたのは、不快感よりも疑問を感じたのかもしれないし、あるいはもはや簡単な悪態で解消できない怒りのようなものがわき起こったのかもしれず、それはどちらの解釈も可能だろう。とっさのことであり、ツバメに聞けばわかるというものでもない。とにかくツバメは上を見上げた。何が見えただろう。ここで地の文でいったん「ため」を作る作者。

2

 月光の光の中、幸福の王子の像の黄金の頬から流れ落ちる涙。ツバメがかわいそうな気持ちでいっぱいになったのは、幸福の王子が美しかったからだろうか。美しいものが悲しんでいるとかわいそうな気持ちになり、そうでないものが悲しんでいると何も感じないか嫌悪感を感じるという生理的感覚のメカニズムをやや距離を置いたところから眺めることもできる。ただ、ここではツバメの小ささに言及されていることからして、その場面の絵画的な美しさを読者の想像力に訴えているのだろう。美しい幸福の王子がなぜか涙を流している、そのことの(ある意味ではやや倒錯的とも言える)美しさが主題だろう、そのことと(ときに理不尽な)同情のメカニズムの要因の一端の描写が同時に成り立つとしても。

 ここで初めて、この小説のタイトルにもなっている幸福の王子の像が、無生物であるにもかかわらず一個の人格的存在であるらしきことが明らかにされる。その前にも葦やツバメが人間のように(言葉を用いている点は比喩だとしても)コミュニケートしていたが、生き物という点でやや「像」とは異なっていた。ファンタジー色、あるいは寓話的ニュアンスがいっそう高まる。

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 かわいそうな気持ちでいっぱいになったからといって、ツバメは唐突に理由をたずねるわけではない。ツバメは礼儀正しかったので、個人的な意見は声に出しませんでしたと後に述べられているとおり、悲しんでいる人に突然その悲しみの理由をたずねるなどというのは不作法で相手を驚かせるばかりか嫌な気持ちにさせる、という配慮が働いてのことかもしれない。当時の風習として、知らない人に話しかけるときはそのような話しかけ方をするものだったのかもしれないが、いずれにせよ、どちらかといえば丁寧な接触だった。"Who are you?"という口調の和訳によっては、ここだけとればぶっきらぼうとみる余地もあるが、かわいそうな気持ちでいっぱいになっていることも考え合わせればやはり礼儀正しい呼びかけと読むのが正しいように思う。この瞬間にはツバメの中で濡れたことへの怒りはいったん後ろに退いており、同情と礼儀正しさが前面に出ている。
 誰だかたずねているのは、当然、涙を流しているのが「幸福の王子」の像だということをツバメが知らないせいもある。

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 ツバメと幸福の王子の問答が始まった。ツバメは幸福の王子という名乗りと、王子の行動はあまり調和的でないことを指摘し、あわせて自分が濡れてしまったことを伝える。このあたりはツバメの礼儀正しさが名目上の礼儀正しさにとどまり、もともとは相手の気持ちを深く思いやるたちではないことを示していると読むことも可能かもしれない。が、これは、ときにはおっちょこちょいにも見えるような率直さの現れとしてやや肯定的にとらえたい。相手の気持ちを思いやることは、相手を思いやりの必要な存在として見下すことにもなってしまいかねない。モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人の気持ちを考えろ参照。

 幸福の王子はツバメに答えて、生前の話からはじめる。サン・スーシ宮殿はフリードリヒ大王によって現在のドイツのポツダムに建てられた実在の宮殿だが、サン・スーシとはフランス語のSans Souciであり、「憂いがない」と訳せる。周りには、非常に美しいものしかなかった実際、幸福だったのだ、もしも快楽が幸福だというならばと王子は言う。ツバメに話している現在、おそらく王子は必ずしも快楽が幸福だとは思っていないようだ。果たして快楽は幸福だろうか、ということはこの作品全体が提起している重要な問題にも思える。

 宮殿の中では楽しいことと美しいものに囲まれて生き、死んだ。その王子には、死んだ今となっては、町のすべての悲惨なことと醜悪なものが見えている。
 宮殿では塀の向こうに何があるか、一度も気にかけたことはなかった。その気にかけていなかった塀の外の悲惨さ、醜悪さを高い場所から見ている王子。塀をへだてて落差は激しかった。その落差こそが「幸福の王子」であるにもかかわらず「泣いている」原因だということを、私の心臓は鉛でできているけれど、泣かずにはいられないという言葉で説明する王子。もう生身の体を持たず心臓さえ鉛でできているのに、それでも心を揺さぶられる。町全体のあまりの醜悪さと悲惨さを見せつけられて。

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 ツバメはこの時点で、そんな話にほとんど関心がないといっていい。ツバメが関心を持ったのは、心臓が鉛でできているという、話の終わりの方のごく一部分。「何だって! この王子は中まで金でできているんじゃないのか」。それを個人的な意見として口に出さないという慎みを作者はツバメの礼儀正しさとしている。口に出さないのは慎みだが、王子の話のうちであまり重要ではないその部分にもっとも気持ちを動かされるというのは、即物的な性格であることの表れでもある。もっともそれが一概に悪いということではなく、単に幼いだけともいえるだろうし、どちらかといえば私はそう思う。ただこの小説から離れていえば、幼さと悪との関係は単純ではない。