映画「ゲド戦記」、私は満足しました


 この映画について書くよう促しをいただいて「近いうちに」と答えておきながら、やたらと時間が経ってしまったが、たいしたことも書けない。その間下書きをしてきたわけでもない。とりとめもなく書いてみたい。書き落としもあるだろうが、そのうちまた補う機会もあると思う。

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 映画など基本的には好き嫌いですませてしまってもよいと思うし、何か論争に加わるほどのこともない。ただ作品が伝えるメッセージが「悪い」場合や何か弊害を感じる場合には、夏のひこうき雲 - 映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思うのような記事も書いたりする。が、映画「ゲド戦記」についてはとくに何か「悪い」メッセージは感じなかった。映画から伝わるメッセージそのものにはこの記事ではほとんど触れないが、共感した。


 あれこれホットな話題になっていたのは何故かといぶかしく思っていてふと思ったのだけれど、宮崎吾朗監督が宮崎駿監督の息子だから、その地位を利用して不当な利益を得やがってという怒りを持っている方もいるのだろうか。そのあたりの問題についてはessaさんがアンカテ(Uncategorizable Blog) - ハヤオの息子学序章で書かれている。今回の映画に関していえば、別に不当な利益を得ているとは思わなかった。むしろそれ相応の苦しみを負っているように感じた。本人が望んで引き受けた苦しみなら周りが同情する必要はないが、そもそも誰の子として生まれるかは選べないうえに、今回彼がゲド戦記の監督になった経緯がよくわからないので、どちらかといえばその苦しみについては私は現時点で同情的な立場にいると思う。
 もう少しこの話題に踏み込むなら、


私は、押井さんにもうひと花咲かせてほしいと思っています。
だから感想は、一言。
もう一度、同じテーマで、
サービス第一のエンターテインメントに挑戦してほしい、
これだけです。
 こうした物言いに腹の立つ人も多いだろう。だが好意的に見る私としては、単純に、業界の上下関係や権威のあるなし、知名度、同じ業界の先輩後輩といった関係性にとらわれることなくただ自分の考えをそのままに書いているように読めた。私がどちらかというと宮崎吾朗監督に対して好意的なのは、むしろこういう、ある意味でムラ社会的な「空気読め」的価値観とは別のところにいるという点で自分と似ていると感じるからかもしれない。まあこれはどうでもいい話。ちなみに押井守作品はまだ観たことがないのでとくに好印象も悪印象も持っていない。


 話を戻して、宮崎駿の息子吾朗が監督したということについて。私はむしろ、観終わって、宮崎駿でなく宮崎吾朗がこの映画を撮ってよかったと思った。宮崎駿の世界観は、乱暴にいえば、むしろ影に喰われた人の魅力を描くほうに傾斜しているような気がする。その描き方の完成度が高いので作品としての人を惹きつける力は強いだろうし、商業的にもさらに成功するだろうけれど、もし宮崎駿ゲド戦記を映画化していたら、(漫画版の)「風の谷のナウシカ」を読んだときに感じたのと同様、私は観て強い反発を覚えたに違いない。


 ふだん滅多に映画のDVDなど買わないが、この映画は、観終わったとき、DVDを買うことを決めた。映画を観ていて次々に、記憶しきれないほど多くのかつ多方面への示唆を受けたので、改めてゆっくり観ながら、ときどき画面を止めてメモしたいと思ったからだ。その折には改めて何か気づいたことをここに書くかもしれない。もっとも、そうした示唆を受けるのは私の中の各方面に関する問題意識(といったら大げさだが)が前提にあるだけで作品それ自体としての価値からくるわけではないのかもしれない。宮崎吾朗監督が意図していない事柄を私が勝手に認識したのかもしれないし。
  まああとは、もともと私は原作のゲド戦記シリーズのファンなので、二次創作というのかな、そういうものを味わえてうれしいというミーハーな要素もあるだろうけど、原作は評価するが今回の映画はダメ、という人もいるようなので、この要素は自分の中でどう働いたかわからない。ただ原作を読んでいれば映画はもっと楽しんで観られるだろうし、そうでなくても原作のゲド戦記シリーズはお薦めです。映画を観て?と思った人も、観ていない人も、もし原作未読であれば。
 なお、「ゲド戦記」というタイトルについては映画をご覧になった不活性で怠惰なアタシの肉体の神秘 - 幻のゲド戦記が疑問に思ってらっしゃるのは当然で、元々ちょっとタイトルとしておかしい。日本語に訳した時点でそのようなタイトルが付けられてしまったが、英語圏ではEarthseaシリーズとして知られているファンタジーで、戦闘シーンはほとんどないので、男の子男の子したタイトルだからといってあまり警戒心を持たれないといいなと思う。

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 作品はゲド戦記3巻をベースにしていると言われているが、私が見た限りではシリーズ全体を再構成した感じ。といっても途中をはしょってやたら駆け足とかいうわけではなく、一応別の物語として理解できる範囲で設定を用い、映画として可能な尺でうまくまとめていた。


 冒頭で王が息子に殺される。この点は唐突だとかいわれるが、少年の心理としては一般的なものだろうし、それはそれでとくに違和感などは感じなかった。ただこのエピソードを盛り込んだことに関する鈴木プロデューサーの関与をあとで知って、あざといなと思った。組織の運営や存続には彼のような人が必要なのかもしれないが。


 それからテルー。原作ではあの少女はもっと悲惨な、見るだけで人が目を背けるような容姿をしている。声もほとんど出ない。映画を観る前は、その点があいまいにされ普通の(顔の一部分がやや色の濃い)少女として描かれているという時点でもうこりゃだめだなと思っていたが、実際に観てみて、これでよかったと思った。商業的な成功をある程度義務付けられている中では、原作のような描写はありえない。映画ではテルーのそのむごい境遇そのものよりも、むしろどちらかというとテルーに潜む生命力、言葉を持たない根源的な命のかたち、竜であることに焦点を合わせているようで、それはそれで成り立っていた。描き切れていたわけではないが、伝わった。


 書いているときりがない。「クモ」が炎に包まれたシーン、あれは私がそのときぼーっとしていたせいもあるのだろうか、あれはなんらかの理由で(あるいは、そこに至って必然的に)クモの体が自然発火したように見えた。そもそも身体と呼べる状態でもないし、あの状態に立ち至って、存在として崩壊するのはごく自然な成り行きというか、むしろ(クモにとっての)恵みのような気もする。もっとも、それほど周りに聞いたりネットを見て回ったりしたわけではないけれどクモが燃えて崩れるシーンについて私のような受け止め方をしている人は知らないので、単純に私の見間違いということかもしれない。ただ、たとえ竜が口からはき出す炎で身体が燃え始めたとしても、あまりクモの死とその死に方の意味は変わらないように思う、そういう解釈を私はとる。全体的にこの映画は直裁的なセリフと裏腹にというべきか、むしろその直裁的なセリフを典型例としてというか、シンボリックな表現が多い。その場面だけでなくクモはそのときどきの身体表現などもうまく描かれていたように思った。クモの幼児退行したような段階も、思わず笑ってしまったが、まあ悪というか人間のある根源的な部分ってそうなんですよね。映画「幻魔対戦」狂言回しとして登場する女占い師を連想した。ちなみに「幻魔大戦」はニューエイジチックというか、危険なのでお勧めしません。わかりやすくいうとオウムにつながる、ある種の思想の系譜だなという気がする。


 ただ横から見た歩いている姿、あのアニメーションはどうかと思った。人間はあんな歩き方はしない。というか、あんな歩き方をする人間は、現実にはその時点でその少し変わった歩き方に応じたキャラクターを備えているので、そういう設定ではない以上、単なる技術力の不足だろう。


宮崎:アニメーションの製作経験がない素人でしたから、スタジオのスタッフに認められるのに苦労しました。

――認められたと感じたときは?

宮崎:最後の最後までなかったような……。

 とのことなので、あまりスタッフの積極的な協力は得られなかったせいなのかもしれない。ともあれ、その作品の世界が具体性・迫真性を欠いていることは、むしろプラス材料として評価している。映画を観る前にドロCのインスタント人生ご覧あれ - おしゃれに興味ないわけじゃないのになぜ 宮崎吾朗監督のことという記事に


>ひきかえ、「ゲド戦記」は、原作にはまだある、何かあると思ったし
 そううかがってほっとしました。映像の力はあまりにも強大なので、映画が中途半端に出来が良いと、映画が原作のイメージを強く決定づけてしまって、そのイメージが実際の原作と異なる場合には取り返しがつかなくなるので、むしろ出来が悪いほうがいいなと思っていたところでした。

 とコメントしたが、その意味では、つまりいい意味で、出来が悪かった。それはそれとして、全体の画風というかタッチはこの映画に合っていた。パンフレットには

 本作で吾朗監督が目指したのは、絵画のような背景美術です。それは、写真のようなリアルなディティールを描き込んだ緻密なリアルよりも、油絵やテンペラ画のような筆のタッチや大胆な色づかいからなる、絵画としての豊かさを追求した背景。

 などとあった。ときおり観客の想像を越えて歪むアレンの表情とともに、宮崎駿のアニメとは違う魅力を持っていたと思う。宮崎駿のアニメは、予定調和の世界をどれだけ写実的にリアリティを持って描くかというものに思えた。それと比較するなら、宮崎吾朗の今回の作品は、予定調和を越えた現実に向き合ううえで考えさせられる事どもを、作品としてのリアリティは犠牲にすることで描いたといえると思う。作品に没入はしなかったが観ている私の思考は大きく揺さぶられた。といったら不正確か。私の世界観がはたして妥当なのかという挑戦を受けた、ということではなく、改めて活性化された。

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 最後に原作者のコメントを紹介したい。
Ursula K. Le Guin: Gedo Senki, a First Response
 に掲載されていた、原作者のこの映画に関するコメントも興味深く読んだ。原作者に案の定酷評された、と解釈する人もいたようだが、全然私はそう思わない。『影との戦い』を読むだけでも分かるとおり、あるいはオジオンという人の描き方でも分かるように、ル=グウィンは言葉を大切にしている。言葉を大切にしているというのは、建前を堅持し言葉の受け手を傷つけないという意味ではなく、あるいはネタとしての言葉の威力に魅入られて運用のテクニックをみがくことに余念がないというのでもなく、むしろそうした威力を警戒しながらも、ものごとや感覚を正確に表そうとしている、ル=グウィンはそういう人だと理解している。そういう前提で読むとき、まったくシンプルに、それぞれの言葉が表す以上でも以下でもなく、作者のこの映画に関する感想が聴き取れると思う。


In them, at least, I recognised my Earthsea.
 ゲド戦記シリーズ後半に散在する、ある種のフェミニズムへの過度な傾倒や、ロジカルに組み上げられたシステムやおよそロジカルであること自体への嫌悪などからして、ル=グウィンの考え方に全面的な賛同はしないし、ある作品群を高く評価するからといって、作者の世界観を全面的に受け容れなければいけないものでもない。

 だが、私も、本で読んで感じた私なりのアースシーの世界を、映画の中に見てとった。私にとってはそれで十分だった。