日本語が英文法的理解において語られがちなこと、「思う」という時制

 モヒカン族 - と思いました。というモヒカン族キーワードリンクからたどって、しらざるをしる日々 - 「いまどう思ってるんだよ!」という記事を発見しました。

 ちょっと茶目っ気を出して、


「た」は国文法上、文脈により過去・完了・存続・確認という多様な意味を持つとされていることがもっと一般に啓蒙される必要がある「と思いました。」
(モヒカンより☆)
 とコメントしました。少し内容についての質問をいただいたので

あはは、はじめまして。名前知っていらっしゃいましたか、光栄です。
 otsuneさんのツッコミ待ちのようでしたので、上のコメントは文体(と内容)をまねしてみました。
 「突っ込みどころ」ですが、内容について何か言いたいということはありません(元の記事を拝読していませんし)。ただ、分析の上で、「過去時制」か否かという基準よりももう少し意識的に細分化された便利な基準を用いれば、分析も楽に行え、頭の整理にも役立つのではないかと思った(←存続・確認)ので今回コメントさせていただきました。
 現在の考えについて問われているのに、過去の考えについてのみ限定したような(よくわからない)形で返答があったとすれば、それはたしかに曖昧で卑怯な言葉の濁し方ですが、実際にそのような手法が用いられている場合はごくわずかでしょうね。
 schillasalさんへの批判とは受け取ってほしくないのですが、一般に日本語は英文法からの類推で分析されがちなので、「た」イコール(すべて)過去形という誤解は厄介だなと思います。(たとえばよくある誤解ですが、「前から好きでした」は内容からいって過去形ではなく存続あるいは確認だから、「現在はどうなのか」という疑問は出ませんよね)
 長々と失礼しました……。
 と再度コメントしたところ*1

ところで、「前から好きでした」の例ですが、これは「思う」で置き換えると「前から思っていました」になりますよね? で、「思いました」には存続や確認の意味って出ることあります?
 という質問をさらにいただきました。


 これにきちんと答えるのは、かなり難しいんですよね。、別に殺伐とした議論というわけでもなく既にモヒカン族としての話題を離れていると思うので、モヒカンダイアリー「アップル通信」ではなくこの「夏のひこうき雲」で書くことにします。

 専門用語ではなくなんとなく書いてみるので、不正確な用語の使い方などあると思いますが、そのあたりは遠慮ない指摘を期待しつつ*2つらつらと書いてみます。
 あんまり問題意識や使命感を持っている事柄ではないので適当な話になってしまいますが、ご了承ください。

助動詞「た」の持つ多様で重層的な意味合いについて


 コメントで「過去・完了・存続・確認」という分類を紹介しましたが、これらは個別の文例・使用例ごとに、4つのどれかにかっちりとあてはまるというものではないと私は思っています。

 少なくとも過去に話者の意識が向いている点ではどれも共通ですが、それが現在と切り離された叙述なのか(過去)、現時点「までの」連続に焦点があるのか(完了)、漠然と現時点まで連続しているという点が意識されているのか(存続)という微妙なニュアンスの違いがあるにすぎません。


 なお「確認」については難しいのですが現時点で私は以下のように考えています。
 時間という概念そのものにかかわってくる話ですが、現在というのは実は瞬間に過ぎず、「今」について叙述した時点で、その「今」は既に過去になっているわけですよね(だからいわゆる「現在形」は、むしろ近接した未来のことを述べていると感じられる場合が多い)。
 だから、〈たった今、自分が何らかの事象・事物について認識した〉ということについて、聞き手(これはしばしば自分の意識という存在ですが)に対して改めて叙述の必要を感じる場合には、そのピンポイントでの「時点」がやや強調されるために、漠然としたいわゆる現在形ではなく〈表現した時点で既に過ぎ去った過去となっている〉という点が意識され、「た」が用いられるわけです。
 わかりづらいと思いますが、つまり、ある時点が意識される。その時点は、述べる時点では常に過去となる。だからその時点について意識され、誰かに向かって述べられるときには「確認」の意味を持つ。というような感じの成り立ちではないかと考えています。

思うという行為の特殊性について


 このあたりはたしかfinalventさんが以前日記で書いてらしたのを読んだ記憶がありますが、先に私の考えを書いてみます。

 思うという言葉の意味を少し私なりに分析してみると、主張するという意味の他に、ある事柄についての記憶をよみがえらせ意識の上にその記憶をのせる、というようなニュアンスがあるように思います。
 これに対してたとえば「考える」というのは、あるテーマを天秤に乗せてあれかこれかといろんな要素を比較するというような意味合いだと昔何かで読んで納得した記憶があります。つまり「見比べる」というような意味を持つ「考える」に対して、「思う」というのは、何かを「見つめる」というような感じだと理解しています。

 で話を戻しますが、「思う」という行為は、過去の認識や体験、記憶をターゲットとしてそれを意識に持ってくる(または自然に意識に浮かび上がる)という作業なので、(〜と思い定めているという主張・宣言としての「思う」でなければ)基本的に「思った」という表現との親和性がかなり高い語彙だと私は感じています。

 説明が難しいのですが、自分の記憶や思考を振り返るとき、その内面における作業についての叙述は常に過ぎ去った過去についての話になります。目の前で起こっている事柄を同時進行で報告していくのとは違って、常に語り手の意識という変換装置を通すという手間がかかり、その間に過去になった、という意識が、「た」という表現を使わせるのだと思います。


 だいぶ遠回りになりましたが、

「思いました」には存続や確認の意味って出ることあります?

 へのお返事に一応なっているかと思います。まとめると、

  • そもそも「た」の意味合いとして、はっきり違うとわかっている場合以外は、多少は「存続」や「確認」のニュアンスが常に存在するだろう
  • 「思う」という行為は「思った(敬体:思いました)」という表現に結びつくことが多いので、このときに「た」が用いられているからといってとくに過去だという(現在はまた別という)点が強調されるわけでは本来ない。だから存続や確認(現在もそうだという)の意味が出る場合もあると思う

 という感じになるかな。

 具体的に「ある文章を読んで、私はこう思った(思いました)」というケースについて考えてみます。これは読んだときの心の動きを振り返って述べたものであって、「♪あら、こんなところに牛肉があった!」という確認の例とそれほど違いはないと思いますね。

 念のため書き添えますが、もちろん「思いました」が単純な過去の事実の叙述のみを意図していて、存続や確認の意味を(ほとんど)持たない場合もあるでしょうね。


 最後に途中で少し触れた、関連すると私が思うfinalventさんの日記中の文章を紹介しておきます。kemurinさんのコメント


その後、主体的には、こんなに美しいのなら意味なんてなくてもいいかなとか思ったりする、客体的には、主体と美との間でその刹那のみ「事後的に」ささやかな意味が発生していたりする。いずれにしても、意味には、「あるかないか」という現在形で語られる「大前提的な」意味と、「発生したかしなかったか」という過去形で語られる「事後的な」意味の、二通りがあるのだと思います。
 から続く一連のコメントです。(たとえば「思う」とか「美しいと感じる」という)自分の意識と時間の関係など、当時何度か読み返してなるほど、と思ったりしていました。

*1:ここまでが前回の記事夏のひこうき雲 - ついでにいくつかの話です

*2:モヒカングループでもここでも共通することですが、私はプライバシー暴露や違法な表現以外なら、罵倒も含め批判や指摘は歓迎します。ただし反応をするかどうかは色々なファクターを考慮して個別に決めています。こうした私の対話の姿勢についても、改めてどこかで書きたいと思っています