『カエアンの聖衣』

 先ほどさらっと再読。B級オモシロSFですがなかなかでした。

カエアンの聖衣 (ハヤカワ文庫 SF 512)

カエアンの聖衣 (ハヤカワ文庫 SF 512)

 解説によるとこういうのを「ワイドスクリーン・バロック」というそうですね。たくさんのアイディアが詰め込まれていて、はちゃめちゃな感じもするもののそれぞれについてハッとするような発見もあります。

 ここではあらすじの説明などは控えますが、全体的なテーマとしては服飾文明の行き着く先やセルフイメージとの関係での身体性、全体として機能する受動的知性が挙げられるでしょうか。

 身体を部分的に機械に改造して、宇宙空間を全裸でイカダに乗って動き回るサイボーグ種族ヤクーサ・ボンズ(起源は日本人)が、ロシア人に起源を持つ巨大なロボコップ全体主義生物と戦う。これはあほらしくて笑えました。

 なお、上のようなガジェットと性との関わりなどもちょろっと情けなく出てくるので、そういうのがお好きでない方は読まない方がいいと思います。

 昨今のはてなブックマークとの関係でいうと、以下の下りも興味深く読みました。

 317頁から。

「あれには知性がある」ペデルがくり返した。「しかし、それはあくまで受動的な知性だ。たとえば、あれとコミュニケートするのはたぶん無理だろう。カエアンでときどき見かける鏡とかなんとか、ああいった機械装置と似たようなもので、受動的な機能しかないからな。かれらは影響力によって存在しているんだ」

 「あれ」というのはプロッシムと呼ばれる植物のことです。「鏡」とは単純な鏡ではなく、作品中に登場する、ときどき目をつむった顔を映したりするある種の機械のこと。

 318頁から。

「その知性があくまで受動的で、行動に必要な心理特性を欠いているというのなら、われわれ人間の心をどうやってコントロールできるかしら?」
 エストルーは、ペデルの言わんとする意味をもっとはっきりと理解した。「鏡と同じですよ、アマラ、覚えて(原文ママ)ませんか? あれはあくまで反映しかしない――しかし、反映するイメージをときには変えてしまうことがある」
「プロッシムの意識には、比較し照合する働きしかない」ペデルが言った。「あれは一つの印象を、別の印象と比較するのさ。いいかい、その意味をよく考えてみてくれ。それだけのことから、いかに多くの興味ぶかい効果が得られるものかを」

 すこし戻ってまた317頁から引用します。

「いや、そのうち、あの植物全体が、無限にスーツを稔らせ(原文ママ)続ける穀物になってしまう。そして、最後にはギャラクシイのすべての人間があれを着ることになる。それで世界はおしまいなのさ」
「あのスーツは、自分が一人前になるためにきみを着用者として利用したと、そうなんだな?」
 ペデルがうなずいた。

 「あのスーツ」というのが、はてなブックマークについて某所で見た「無数の小さな近藤淳也」というような例えに似ていると捉えることもできると感じました。まあある意味で文学的な例えではありますが。