「夕焼け」再読

 amehareさんから、吉野弘の「夕焼け」という詩についての記事[Web][レビュー][雑記] 吉野弘「夕焼け」コメントを頂いていました。コメント欄でお話ししていたのですが、手元で書いていたお返事がだいぶ長くなったこともあり、少し迷いましたが別の記事として書いてみます。コメントを頂くきっかけとなった、amehareさんの元の記事はこちら(「吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する」)


 今回頂いていたコメント

僕の場合、この詩は現実を写しているのだろうが、あくまで詩人による作詩だと思う。つまり、この詩で起きていることは、詩人が見た風景だとは思うが、体験もしくは経験を写実したのではないと思うのだ。あくまで詩人の心象であり、造られた世界だと思う。
(現実的には起こりえない風景だと思う)

 という下りの意味が私には把握しづらかったのですが、まず一応テクスト外の事情を捨象して、状況と経緯について考えてみます。
 仮に詩人が座っていたのなら、自分が年寄りに譲ることもできたでしょうね。そうでなく立っていたのならただ見守るしかできなかったでしょう(前回のコメントで端折って書いた部分です。少女でなく他の座っている人に「女の子がかわいそうだろ、お前が譲れ」と言うことも、理屈の上ではできなくはありませんが……)。このあたりはとくにamehareさんと感じ方に相違はないかと思います。
 ただ、私はこの詩で描かれていることは現実的に起こりえる風景だと感じるんですよ。途中下車も含めて。また、席を譲らされまいとして目を伏せている場合には窓の外など目に入らないでしょうから、「美しい夕焼けも見ないで」と想像するのもごく自然だと思います。
 これは「私のように感じないのは間違っている」と主張したいわけではなく、ただ私の場合これまで見聞きした経験がそう感じさせるだけです。


 次に、この詩でただの描写にとどまっていない、ある意味で少し踏み込んだ想像といえるのは、

やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。

 という詩人の考えとその光景を結びつけている部分ですね。それから

つらい気持ちで

 という部分も詩人の想像にすぎませんよね。このあたりについては、詩人の意図的なものを読み取ろうとすることがあるいは可能かと思いますが、私自身はそれほどの恣意性や飛躍は感じませんでした。

 「自分は立っていたから代わりに譲ることなどできなかったけど」というような断り書きや「自分はこうしたかった」だとか「おとしよりが悪いと言うつもりはないけれど」というような補足はある意味でずるいエクスキューズになることも、詩人は考慮に入れたうえで、あえて書かなかったように思います。また事態を放置して途中下車したのは冷たいだとか、話をそこでとどめたのは卑怯だというような批判を詩人は元々甘んじて受けるつもりでいるように思います。いわばこちらに委ねてしまっているわけです(ここはあるいはamehareさんの感じ方とは違うかもしれません)。

 状況は少し違いますが、たしか〈すぐ近くの背後に止まっているハゲタカにじっと見つめられている、飢えて死にそうな黒人の少女〉の写真が一時期非常に問題視されたことがありました。「撮り方が恣意的であざとい」だとか、「なんで写真を撮る前にすぐにハゲタカを追い払わなかったのか、あいつは冷たい、人間じゃない」とか。実際は写真を撮ってからすぐにハゲタカを追い払ったそうですが、結局何年か後にその写真家は批判にたえかねて自殺してしまったように記憶しています(これは記憶違いかもしれません)。
 私自身は、撮影された場面は実際によくある状況だったのだろうと感じるし、アフリカの飢餓の危機的な状況を伝えるのに効果的だったので、よい写真だと思います。


 結局私たちは必ず、世界を何らかの形で編集して(ある意味で恣意的に)認識していますし、言語で記述する際には基本的にシリアルな叙述にならざるを得ないと思うんですよね。だから、誰であっても、世界の切り取り方から恣意性を排除することはできないのですが、〈複雑な事態を正確に描写しようとして読解を困難にしたり、あるいは「どう思っているかはわからないけれど」といったエクスキューズを明示的に多用するといった技法をあえて用いないスタイル〉が許されるのも、詩の利点かなとは思います。
 そしてこの詩については、非難されるほどのミスリード(=不当な誘導)があるようには感じませんでした。

詩人の立ち位置にいた読者は少女の立ち位置に向かうことになり、それが最後に語られる詩人の言葉(想像)に重なって、読み手を少女の気持ちに同化させてしまいます

 というのも(この詩では想像の内容が状況や経緯からしてそれほど無茶ではないように思うので)私はあまり問題には感じないんですよ。amehareさんがおっしゃるような問題意識はわかるように思うのですが、他ではなくこの詩についてどうかといえば、私は、そうした欠点はとくに感じません。
 ただ、amehareさんが詩人の作詩姿勢へ向ける「プロパガンダの技法」というような手厳しい批判は、(amehareさんの意図とは別として)この詩に違和感を感じない私にもあてはまるのかもしれません。その点は今後も自分の課題として念頭に置いておきます。


 詩の内容に戻ると、「できるヤツから潰される」がたいへんよく似た構造だと思います。
 この詩は、少女が「やさしく」なければ、つまりおとしよりのつらさに鈍感だったなら、前に立つお年寄りの存在は、何ら攻撃にはならないわけですよね。現に「若者」は別に席を譲っていないし、それで別に若者は過ごしづらくなるわけでもないのでしょう、それが「いつものこと」だから。
 ただしそういう周囲の鈍感さと、「やさしい心の持ち主」への過剰な期待が、ますます少女を追いつめていくことになる。もう席を立つまい、という少女の苦しい決断(瞬間ごとの決意の連続)は、そうした不当な構造をまわりに気づかせるための抗議だろうと思います。しかしその決断は、実際につらい思いをしているお年寄りに負担をかけることになる。そのことに気づいているし、お年寄りのつらさがわかっているからこそ、少女は下唇を噛んで自分を責め続けるわけです。私はこの詩については主にそのあたりに注目していました。

 なお、amehareさんの記事へのコメントでも以前少し書きましたが、「弱者」とは誰か、またマナーとルールの関係など、この詩の解読そのもの以外にも興味深い示唆をいくつか頂きました。後で記事として形にするかどうかは別として、そうした事柄についてももう少し考えてみたいと思っています。