日本における金銭や上下関係を前提としないリソース配分システムの可能性の低さ/ニュートラルな意味での「博愛」

 先日、赤十字から電話で献血を依頼された。最近多い。私と白血球の型が合う人の手術だかなんだかで、献血できる人を探しているのだという。

 適当に日時を決め予約してから思ったのだが、電話で献血の依頼をしてくる方々はかなり低姿勢だ。あれにはやや違和感を感じる。

 なんというか、こちらは無償で協力するわけだから、感謝してくださっているのは分かる。だけど、電話で依頼してくる方々も、無償のボランティアだったりするわけでしょ(たしか。全員ではないと思うけど)。

 こちらは別に客として威張りたいなどというようなことは微塵も思っていないのに、逆に申し訳ないと思う。まあ、威張る人も一定数いるんだろうから、いずれにしてもそういう対応をせざるを得ないのだろう。


 そもそも私が献血をするときには、何か善行をしているなどとは全然思っていない。必要なところに必要なものを融通するわけでしょ。わざわざ言葉にするのも何だけど、当たり前のことだと思う。こちらはたいした損をするわけでもないし、別に自分が感謝されたいとも思っていない。あえて言えばむしろ義務だと思っている。


 もう少し言うと、献血ルームにお菓子とかゲームとか充実させるのは、方向性としては少しどうかと思う。最近は占い師がいたりするらしい。


 昔は売血というものがあったらしい。収入を得るために売血をしすぎて血が黄色っぽくなっている人たちが出てきて問題になっていたという(そのような血は輸血にも適さない)。売血が禁止されたのはいいのだけど、お菓子やゲームや映画で釣るのはやっぱり売血みたいなもんじゃないか。少し強い言葉で言うと、献血する人をなめるな、物に釣られて献血するわけじゃない、と思う。


 少し話を広げる。ちょっとしたことをしただけで素晴らしい善意の人みたいに持ち上げる風潮があると、残念なことに、自分を高く評価して欲しいと思う人がもっぱら自分を飾る目的で似たような「善行」をする。それを偽善と呼ぶか売名行為と呼ぶかは自由だが、まあそういうことがある。
 そういう人、つまり他人の目を気にして行動する人は、他の人も同じような基準で行動していると思い込む。で、普通に当たり前のことをしている人を「偽善者だ」「かっこつけやがって」と罵る。結果として、善い行いがされにくくなる。

 「いいこと」をして悦に入りたいわけじゃない。実際に役に立てばそれでいいんで、私が称賛される必要は全然ない。


 話の筋がめちゃくちゃになってきたが、献血による血液の供給をもっと広く安定して得ようと思うなら、お菓子などの「おまけ」にリソースを充てるのではなく、広報などに資金を投入して、単純に献血の必要を広く知らせる方がベターだろう。

 骨髄移植なんかもそう。その際、変に感情に訴えようとするよりも、淡々と「こういう風にすればこういう風に助かる人がこれぐらいいる」「ドナーの負担はこの程度」と知らせればいいと思う。


 なんというか、金銭を介在させないシステムというのは変に美しい物語にしないとやっていけないものなのかなあ。そんな大げさな美談にしない方がよっぽどすがすがしいし、うまく機能しそうなものなのに、と個人的には思う。

 サポセンで威張る客のこととか、チャンスとばかりにNHKにごねて払わない人のこととか、共同体とか相互扶助とかフラタニティみたいな概念って日本では根付かず「お上」との関係(依存と怨嗟)しか意識されないのかなとか、でなければ変に左翼的な組織=「組合」としてしか存在し得ないのかなとか、あるいは宗教団体しか受け皿になりえないのだろうかみたいなことをもやもやと思ったけどまとまらないのでこのへんで。


追記:
「だって、私たちはこのかけがえのない宇宙船地球号の乗組員なんですもの…!」とか"We all live in a yellow submarine"とかぼけるのを忘れてました。入れるとしたら「あえて言えばむしろ義務だと思っている」のあたりですね。