ごん狐

 風呂中、ごんぎつねその他を青空文庫(を書籍化したもの)で再読した。ああ、これはとりかえしのつかなさと、通じなさの物語だと思った。軽くメモだけ。追記を前提に。


 死の床にある兵十の母にうなぎを食べさせるのを、邪魔してそのまま死なせたごん(とごんは推測する)。
 魚を盗んで兵十の名誉と頬を傷つけたごん。
 栗を持ってきたごんを、先入観で射殺した兵十。


 ごんはよい最期を迎えたといえる。
私たちは世界に均衡と秩序を求める。しかしそんなものは、あんまりない。この話でもごんは報われない。
しかし、いやだからこそ、私たちは秩序と均衡を取り戻そうとする。だからこそそのごんの姿勢を敬う。

 ごんのよき行いは何によって報われるか。報われることはもはやない。死んだから。
だから私たちは、即物的な次元でなく、例えばごんが天において報われますようにと祈るような思いを抱く。その祈りが、この話から受ける感動の正体じゃないかな。


 いま書きながら思ったけど、実はこの物語の焦点は、兵十のその後。

 ごんは兵十(とその母)への償いを、殺されるまで続けた。

 兵十はどうするか。償う相手がいない。

 今なら例えば自分のwebサイトで、「自分は悪くない」とさびしげにうそぶき続けるかもしれない。そういう能力を発達させることで自らをも欺き続けるのに、ひょっとしたら成功するかもしれない。

 まあ私としては、兵十はその悔こんを胸に、黙って周囲に善意を実践するのがよいだろうとは思うけど。(ここでペイ・フォワードですよ奥さん!)
やはりごん狐は物語としてベストな時点で終わっている。


 話は錯綜するけど、兵十はうなぎをとられた時点でごんを殺してもそれなりに言い分は立ったのだろう。ただ兵十の内面の苦悩は残る。問題はその苦悩を、ごんを含めた他者への激しい怒りと錯覚してしまいかねないということ。悪はそのようにして生まれる。