井原西鶴じゃないけど

 感極まったときにその場でポエム、の話にrucciさんからトラックバックを頂いてました。
http://d.hatena.ne.jp/rucci/20050302

 反応が遅くなってすみません。ちょっと今日はもうPCに向かえないかもしれないので、予定変更して携帯電話から。


 そうそうインド映画のあの圧倒的な感じ、いいですよね。ご覧になったかわかりませんが、少林サッカーのまんじゅうの歌のシーンもそういうノリノリの群舞で、書いたときもそれが念頭にありました。

 それから実は、以前rucciさんの読書会のお話に関連して、私が小林秀雄の文について書いた「意」と「姿」の記事もかなり重なるなあと思いながら書いていました。

[レビュー] 小林秀雄『考えるヒント』について:メモ これは後半やや気恥ずかしいのですが、その前の以下のあたりが関連します。

  • 昔、本居宣長の「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉についての、小林の解釈の意味がよくわからなかったが、今回わかった。後半がポイント。言葉はさまざまな価値意識の下に、雑然と使用されているが、歌は凡そ言葉というものの、最も純粋な、本質的な使用法を保存している。自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、考えてみよ、諸君は心によって心を静めることができるか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。
  • わかりやすいところだけを引用すると、単純化されすぎて駄目だな。
  • 自分なりに簡単にまとめると、「」やっぱり無理。簡単にはまとめられない。一部だけを取り出して試みるなら、うずまく感情(「意」)をととのえ、他者と共有するという「礼」がそこから始まる、ということか。

[Web][レビュー] 小林秀雄『考えるヒント』について:メモ2 これはとくに

原文に今あたる気力がないのですが、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という本居宣長の言葉を引いている小林秀雄の感覚は、
言葉以前のもやもやとした原始的な感情や思考は、言葉によってととのえられ、初めて形を与えられる。これは言葉の本質であって、「歌」がそのよい例だ。その結果である姿としての言葉、あるいはととのえる触媒としての言葉。これを馬鹿にする者は、自らを馬鹿にし、また言葉を培ってきた人々と歴史を馬鹿にするものだ。
大意そんな感じなのだろうと思います(「触媒」とかは私が勝手に使った説明用語)。

 がそのままつながる話ですね。

つまり、曖昧もことした気持ちをことばでととのえ、一つの形にするみたいな。
 ま、私の昨日のあれはととのえ方がアレですが……。

 一つの例としては、炭の割れる音について前に書いた文のことを考えていました。
[彼方より] たまに聞こえる涼しいあの音
 ただあのときは感極まったのではなく、かなりフラットなテンションでしたが。