善悪の認識と行動、自由というものは何かを選択「しない」ということ

善悪の認識と行動について…

 私のトラックバックへのレスポンスをくださったのかもしれないしそうでないかもしれないが、たいへん興味深く何度も読み返している。finalventさん、ありがとうございます。

 ただ今回の記事は理解できていないかもしれず、お考えに疑問は残ります。

 善悪の認識は行動に揺れが起こったときの問題、とおっしゃるのは理解できる気がしますし、それを身体性の分離としてとらえることにも納得できます。拙い言い方ですが、自分がこれからとろうとする行動に自信が持てなくなったとき、そこに〈その行動ははたして正しいだろうか?〉という迷いが起こる。
 この身体性の分離について、単純にいえばfinalventさんは否定的にとらえているように感じました。私もそれには基本的に同意します。ただ話が全然ずれるかもしれませんが、ある意味で動物的に本能的に動く、そういう形での行動という形式の認識を常に全面的に肯定できるとは思いません。たとえば何か・誰かへの配慮によって口ごもる場合などは、むしろ口ごもることの方に積極的な価値をみてよい場合も多いでしょう。

 で、行動の認識は、他者の行動への言葉による問いかけの場合にも、情や熱意に包含されそこに内在する(国語的な理解としてこれでいいのかな)。そういうとらえ方も理解できるように思います。

 結局、上記の行動の認識と〈何が道徳か?われわれはどのように発言しうるか?〉とには抜本的な乖離があるとおっしゃっている。ではどうなるのだろう?カントの格律のあれも「率直に言うと私の心にはない」と書かれていたことと照らし合わせると……乖離があってそれでいいというお考えなのかな。

 しかし。自分の行動の認識、および他者への問いかけに内在する行動の認識に既に、「道徳」的に行動したいという方向性が組み込まれているようにも思えるのです。(ただここで最初に戻って読み返すと、完全に別個?となさっているように思えるのでこのような反論は無効なのかな)

 たとえばダルフール危機の被害者のことを思う(そしてなんらかの行動を起こしている)とき、それは行動の形式の認識だとして、道徳の認識とは抜本的な乖離があるものなのだろうか(これも批判とかではなく単純な疑問です)。finalventさんが善悪や道徳の認識という言葉によって想定されている概念に関心があります。極端な普遍性・究極性を持つもののみなのだろうか。

 別の言い方をすれば、他者に対して「理念の共有の語りかけ」をする際、その理念は善悪や道徳とはまったく別の次元にあるのだろうか。よくわかりません。(なおこのあたりでこっそり書いておきたいのですが私は原理から考えているのではありません。友愛、つまり、理念の共有の語りかけに最初から最後まで努めた結果、家族まで攻撃され自分もダメになった手合です。)

 もう少し踏み込むと、カントのいうようなものではなく、情によって動く、それで私もいいと思うのです。ただそれでは「情」をくさし罵る言説に対してどう接するかという別の問題が生じてきます。それはそういうものだ、くさされ罵られるものだ、というのも一つの傾聴すべき考えかたでしょうけれど。情・友愛のみを強調すると、ただの自己中心というか一方的な思いやりというか、それこそ内戦に大規模に軍事介入する大国のような愚をおかすことにもつながりかねません(もちろんそういうお考えではなかったように記憶しています)。

 結局、「つねに同時に普遍的立法として妥当」することは不可能でも、共有可能な理念を自らのうちに育てていくこともそれはそれで大事なのではないか、とも考えます。

 陽明学や禅をほとんど知らないので今の時点でこれ以上はよくわかりません。というよりも、卑下していうわけではなくそもそも基礎的な教養があまりないので、言葉の使い方からしてなんだか明後日の方向にいってるかもしれませんが。

意識とは迷いであり、愛の認識とは虚偽である

 こちらは、ああそうだよなあ、と思いながら拝読しました。あとで追記するかもしれないけどとりあえず書きたいのは、一つには、愛とはただ行為であって、機械的な遂行ではない。ただ同時に、愛とは意志だ、ともいえると思うのです。といっても無理に愛しているように振る舞うのではなく、愛を奮い立たせる、何かの強い衝動に逆らってでもある対象を守る、というような。(その意志が行為だ、ともいえるのですが、意志とは単に無為に溢れ出るものではないはず)

 もう一つですが、自由はまったくその通りだと思います。ただやはり、その自由は意志と呼べる。というか、揺るぎない意志を持つことがまさに自由の現れだというか。ここはお考えとほぼ違いはないように思います。


 お考えにこうして触れられるのはありがたいことだと思う。以前教えていただいた『時間と存在』を少しずつ読みはじめています。

 こうして賢しらにコメントするのはどうなんだと思いつつも。