『茶の本』と西洋コンプレックス

 「茶の本 要約」などで意外と大勢いらしているので、どこか大学で課題にでもなっているのかなあ。でも要約はしてません、残念! ただ以下レビューともなく適当に書いてみます。参考になれば参考にしれ。

 『茶の本

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)

 といってもまだ読み終わってはいないのだけど、読み進めるにつれて著者岡倉天心の知識や教養の深さだけでなく、「西洋に見下されたくない、むしろ見下したいぐらいだ〜」というコミカルかつ重苦しい思いが集約されていて、私はいろいろ昨今の時代状況を思い出しました。

 時代状況などというと大げさに聞こえると思うのですが、あまり具体的に書くと最近はすぐ吉原炎上するらしいので、具体的なことは挙げられないまま。

 自分の走り書きのメモには、切込隊長が書いていたネット右翼の話だとか。うわキーワード書いちゃった。要するに自分の現実に対して無力感を感じている人たちがネットで世の中を少しでも変えよう、良くしようとして感情的に……(というのは読み返さずに適当に受取ったままの印象なので隊長の意見の紹介として不正確なのはわかっていますのでつっこまないでね)。

 具体的なテーマについての具体的な行動の当否には立ち入らないものの、「巨悪に立ち向かう」とか「強者を憎む」「いばっているようにみえるから激しく憎む」という在り方には、ルサンチマンという便利なレッテルがたいへんよくお似合いだ、と私などはつい考えてしまいます。それ(ルサンチマン)は当然悪い意味での左翼がもともと持っている傾向ではあるわけですが…。ねたみ、ひがみというのは私自身も含めてどうしても抜けきることが難しい問題ですね。

(たとえばこういう文脈で持ち出すのは失礼かもしれませんが、今日の稲本さんの日記山田などは、横文字だと格好いいと思ってしまう心性を取り上げられたのは大いに共感しますし面白かったのですが、日本語だとかっこ悪いと思う感覚の方が焦点のように私は感じます。流行の最先端のテーマパークが「山田園」でもいいと思うんですよね。でもそうはならない。山田園を取り上げる番組の名は断じて「殿様の朝食を兼ねた昼食」ではない。)

 走り書きのメモを見ると、続けて「竹田せいじ」とあったので少し探すと、そうそう、竹田青嗣『愚か者の哲学』のAmazon評にこうありました。


 そして、この本は「自分の生きる意味」を探す良いガイドとなるでしょう。なぜ、自分は人からほめられたいのか。なぜ、恋愛によって世界がガラリと変わるのか。なぜ、失恋すると世界を失うのか。なぜ、ルサンチマン(恨みつらみ)にすがりつくのがいけないのか。なぜニヒリズムシニシズムに毒されるとかけがいのない自分の人生を腐らせることになるのか。

 恋愛真っ只中の人には必要ありません。幸せ絶頂の人にも必要ないかも知れません。しかし失恋の痛手に苦しんでいる人、幸せを探している人、人生が重くつらい人には、とても参考になる本です。そして哲学者の素晴らしいアフォリズム(警句)にたくさん出会うことが出来ます。

 私はまたマルクス・アウレリウスの「この世において汝の肉体が力尽きぬのに、魂が先に力尽きるのは恥ずべきことではないか」という素敵な言葉に出会いました。

 引用最後の言葉、『自省録』かな。読みかけだけど(ただ、アウレリウスのストア哲学は自殺を肯定していたというようなことを訳者が書かれていたような……)。


 なんか話が変な方にいったので戻すと、まあ、ねたみやひがみは良くない。だからといって何かから変に「降りて」しまったり、正義や倫理そのものを投げてしまうのもよくないわけですよね。話をはしょりますがCNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance:「一太郎」訴訟にみるソフトウェア特許のぶざまな現状この「独立自尊を目指せ」の段落などは、私は臆病なのでそこまでの強い言葉は用いないものの、そうだよなあと思いつつ読みました。

 自分に自信を持つ手段として他をくさしたりはしない、他を見下したりはしないというのは、岡倉天心ですら『茶の本』であまり成功していないように読めたので、まあ今の日本でも仕方ないかなという気はします。

 かくいう私も同じ罠にはまっているのかもしれませんが、まあ私自身は、他人を罵っているのではなく、むやみに他人を罵ることを批判しているだけのつもり。

 とりあえずの提案として、むやみに外来語を使ったり横文字の新語を造らずに、たとえば「いみじくも」という言葉をリバイバルさせ、やまとことばから格好悪いニュアンスをリデュースするというアイディアがいみじくも私の心を打ったこの夜はしずかに更けゆくのでありました。オーララー。