杜子春
ナッツぎっしりでも不満足
月の満ち欠けのように金の引力で潮のように毎回寄せては引く「友人」たち。その自動的な仕組み。
情を捨てて仙人の弟子を志願
しかし無私の愛に触れ挫折(ここでは親だからということが重要なわけではないように思う。ただ無償の愛の象徴)
その感性、愛への応答、あるやむにやまれない思いがなければいずれにせよ死んでいた。優しくなければ生きる資格がない。非情になりきれないということ。ここで死ぬというのは(中国でいうところの)天にそう定められるということか。仙人は道教。
「人間らしい正直な暮らしをしたい」というありかた
全体的にくもの糸との比較。ほんのわずかの人間らしい思いやりが本人を救う。しかしかんだたはその後落ちる(杜子春はその前で話が終わる)。自分が途方もなく許されているのに他を許せなかった人のあさましい結末。
杜子春の素直さと、地獄に堕ちてもあくまで沈黙する頑固さ。その漠とした心持ち。非難でなくある意味で未発達。ニュートラルな意味での暗愚。
人間らしい正直な暮らしを決意するのは、人間は決意しなければそのような正直な暮らしをなしえないことをもはや知ったから。
そして脇役である、友人もどきたちにもそれぞれの人生があるということ。みんな色々ある、わけではない。また色々あっても考えずにそのままいく人も多い。
古典はそのときの自分の頭や経験に応じて新しい発見があるなあ。