ありがたい話

 元日からいきなり変人っぽいことを書いてみる。わかりやすく書かずにあえて途中で文意行ったり来たりで。


 先月(昨年12月)の[Web][雑記] 不易流行で微妙に仏教について触れ、またそれに先だってあとりさんの記事へ書いたコメントでは「仏教入門」というような題の本はいくつもありますが、それぞれいろいろな解説をしているようで、私もよくわかりませんとした(日本テーラワーダ仏教協会についてのくだりはその後の追記でしょうか、ありがとうございます)。
 が、じつは11年ほど前に1、2ヶ月ほどかけて「仏教における存在論」という数十枚のレポートを書いたことがあり、ひととおり調べてはある。もうだいぶ忘れたが、当時学校の先生に激賞された。ウパニシャッド哲学からイデア論大乗仏教の一部とキリスト教の類似点などについて粗く大展開した記憶がある。


 それで思うに以下雑な感想になるが、仏教や神道は「宗教ではない」と自己規定したがるにもかかわらず、仏教や神道はたとえばブードゥー教よりもはるかに「宗教的」と言えそうだ(求道的と言ってもいい)。

 なのになぜ「宗教」色を消したがるかというと、おそらく「宗教=非合理的」「宗教=迷信」「宗教=迷惑」という先入観が働いているからだろう。この先入観は逆に、「「宗教」でなければ安全」という危険な誘導としても働く。逆は必ずしも真ならず、だ。Passion For The Futureの私・今・そして神―開闢の哲学というレビューでも、いきなりタイトルだけ見ると宗教かと思えるが、完全に哲学書と始まる(このレビューを読んだ感想についてもいずれ掲載したい)。
 宗教と哲学の連続性が日本ではあまりに看過されている。(おそらく儒教などのごく一部を除いて、)思想は宗教と無縁ではありえない。私たちはどちらの果実をも享受しているし、どちらにも警戒しなければならない。これは科学に対してもいえる。


 という一般的な先入観に対する「啓蒙」は私にとっては別にどうでもよくていわば前振りなのだが、牛過窓櫺狗子仏性かくのごとく見解する、凡夫の情量なり古今の時に不空なり道元と啓示という今日の一連のfinalventさんの記事はそのあたりを考える上で大きなヒントとなった(「そのあたり」と私が書くのはおおむねピンポイントで指し示すことができない場合)。

道元は仏性の覚知を行者の倫理的な選択なき行動への課題として理解しているのだろう。人には、善への、限定されていながら完全なる実践への確信がこめられており、それは、バルト神学的な啓示の契機に等しいのではないかと思う。

私は、思うのだが、ああ、八木誠一先生、と問うてみたくも思うのだが、禅とキリスト教の根底のリアリティにあるのは善的な世界への統合の理解ではなく、そうではなく、むしろ、実存のなかに超越的におきる啓示の契機なのではないですか。

 こうした記述をすぐれて現代的な問題、というよりも端的に現在の社会問題と自己との関わりに結びつけて読んでもいいのだが、というか私の中では結びつかざるを得ないのだが、それを具体的に書くと途端に浅はかになる。まあ具体的に書くものではないかもしれない。これはあくまで個人の倫理の事柄だし。

 道元やバルト神学については、これはほんとに文字通り名前ぐらいしか知らない。「ぐらい」とぼかす程度の輪郭の広がりはあるけれど……。


 ただ、私の中で迷いがあるというわけでもなく、ある程度スタンスは定まっていて、表現能力が貧しいだけ。それでもfinalventさんの一連の文章は、単純な知的好奇心を満たすというだけでなく(これも大きいけど)、生き方を考える上でも参考になります。ありがとうございます(今年もよろしくお願いします)。あまり流し読みしてわかったような気になりたくないし実際に(カール・バルトや『正法眼蔵』を)読むのは先になりそうだけど、興味はあるなあ。


 手近にヴィクトル・フランクルの『苦悩の存在論ニヒリズムの根本問題』があるのでそれから読み直そうかな。

苦悩の存在論―ニヒリズムの根本問題

苦悩の存在論―ニヒリズムの根本問題


 ……さあ、みなさん、私のことがどんどんやばい人に見えてきましたか?(笑)