死を見つめることの意味

香田証生さん殺害シーンを語ることの意味について

(理解できた範囲で)論旨に賛同。以下、簡単に。

養老孟司さんの発想を敷衍していくと、本文中で紹介されている

具体的には、これらの拒否反応を起こす人が愚かだとかそういうことを言いたいのではありません。死は人間の本能的に避けたがる側面であるが故、死の瞬間を見ることを本能的に拒否しているだけなのです。我々が共存していくにあたって、乗り越えなければならないいくつもの本能があります。性欲という本能を抑制しなければ強姦だらけで共存しあえる社会が成り立たないのと同じです。死の恐怖、本来これは乗り越えなければならない本能であり、乗り越えてやっとそこから真実を見据えることができるのです。しかし今日のこの国において、死はあまりに敬遠され、隠蔽され、捏造され、死と関わらなくても伸び伸びと生きていける国ができあがってしまっているのではないでしょうか。それは本当の幸せではありません。どうか恐れずに、死の本能的恐怖を乗り越えてください。

という理屈になっていく危険があるのだなあと(これは養老さんの発想とイコールという意味ではなく、あくまで敷衍していくとそういう危険があるという意味。こういう注釈はほんとうは不要なんだけどさ)。


私自身はそういう理屈に反対です。では極端な暴力の場面、ひどい強姦の場面、そういったグロテスクな場面を見てそうした本能を乗り越えろという理屈になるのかと問いたい。もし乗り越えろという理屈になることを承知の上での主張なら、そこから先はまた別の話になる。
本能や本能的恐怖とはそんなに簡単に乗り越えられるものではないし、なぜ本能的恐怖があるのか、そこには合理的な理由があることを看過していると思う。


そしてグロテスクなものやことに魅入られてしまった人が日本でも多くなっている。それは本能から自由になったのではなく、別の本能の虜、つまり奴隷になってしまったのだと思う。


ここまで書いて、同じような書き込みが2ちゃんねるにあったことをfinalventさんの日記で知る。その日のページはコメント欄も含めて興味深い。


ていうか、人が殺されていく様子を興味本位で見るなよ。その痛みを個人的に引き受けていくだけの覚悟があるのかと問いたい。ここはもう少し正確に書くならば、一人の人の死の痛みと重みを個人的に引受けて背負っていく覚悟が自分にはあるのだろうか、という問いかけを自分の中で持っていてほしい。そういうどぎつさへの衝動を正当化しようとするもくろみ自体が醜い(や、ちょっと表現きついですが)。正当化しようとしているのがただのどぎつさへの衝動ではないかどうか、まずそこでいったん考えてみてほしい。剣闘士同士の殺し合いを見て興奮し熱狂した古代の人とどこが違うかといえば、今回殺された人は、殺し合いなどしていない、そんな覚悟もない、弱い一人の青年だったということ。だからなおさら、それを見たがるのはひどい。というのは私の個人的なとらえかた。私は「遺族の感情が何よりも優先する」とまでは考えないけど、もし私の家族が殺されたら、その殺されていく映像なんて他人に見てほしくない。見ることに名目上どんな理由をつけていようと。というのは、そうした遺族の気持ちを配慮してもなお見るだけの意志があるかということ。たとえば捜査のためならば、遺族の不快感を押し切ってでも、同じような犯罪が起らないために必要だという意志と責任の下に映像を見ることもありうるだろう。


本当は黙って悼みたいんだけど、そのような映像が流通し消費されていく現状はどうかと思うといいたかった。


「簡単に」とか「短く」というときはたいてい長くなる……。そうか、長くなるという懸念が先に立つから、ラフになることの言い訳と、短く書きたいという気持ちの表明としてそう先に書きたくなるのか。


あと今記事を見直してA Japaneseさんの

私にとって、目を背けるべきではない死は、突きつけを行っている人々の論理とは違うところで切実さが決まります。件の「突きつけ」については、そこの恣意性を受け入れることができません。

というコメントにもそうだなと思った。