小林秀雄『考えるヒント』について:メモ2


あ、書くこと思いだした。


はてなキーワードのリンクから、id:rucciさんが小林秀雄について書いてらっしゃるのを拝見して、自分の前に書いた記事[レビュー] 小林秀雄『考えるヒント』について:メモに少し補足してみたくなりました。

(なぜか[レビュー] 小林秀雄『考えるヒント』について:メモからはキーワードのリンクがされていなかったので、当日分をそのまま「更新」してキーワードへのリンクを振っておきました。)


自分で読み返してみたら引用の部分がやはりつかみづらかったけど、もう少し下世話な?読み方をすると、あの「言葉」と題された文章はつまり、当時のある人(々)に対する応答というか反応というか、それではいけない、という熱い気持ちから書かれた気がするんですよね。

どういうことかというと、「どんな言葉を選んだって気持ちが伝われば別にいいだろ、ただの道具なんだから」「別に目くじら立てる事じゃないんじゃないの」というようなイージーな人がいたんじゃないかと思うんです。そういう風潮に対して小林秀雄が「言葉を粗末にするな」という思いから書いたのではないかと。

原文に今あたる気力がないのですが、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という本居宣長の言葉を引いている小林秀雄の感覚は、
言葉以前のもやもやとした原始的な感情や思考は、言葉によってととのえられ、初めて形を与えられる。これは言葉の本質であって、「歌」がそのよい例だ。その結果である姿としての言葉、あるいはととのえる触媒としての言葉。これを馬鹿にする者は、自らを馬鹿にし、また言葉を培ってきた人々と歴史を馬鹿にするものだ。
大意そんな感じなのだろうと思います(「触媒」とかは私が勝手に使った説明用語)。


でも読書会って楽しそうだなあ。