海、広いなーオイ!

丁寧に読んでくださっているかたならわかるかと思うが、私はあまり……衝動というものに重きをおいていない。それは私たちをつき動かすものではあるが、信頼すべきものではないと考えている。

それはときおり、突風のように吹きつけて私をある方向へ強く押し流そうとする。あるいは静かに吹き続け、低温やけどのようにいつのまにか知らない(そして全く望まない)ところまで私を運んでいる。

私は帆船だ。風がなければ動けない。そんなときはじっと停泊しているか、きつくても必要ならオールで漕ぐ。
風があれば、帆をうまく操って動ける。それが向かい風でも、斜めに吹きつける風でも、私の望む方向へ帆船は快走する、その時々に応じた適切な航海術があれば。今日では一般に航海術は発達している。先人たちの悪戦苦闘のおかげだ。誰でも学ぼうと思えば学べる。

そんな高度な技術を使わなくても、帆を忙しく操らなくても、行き先はただ風にまかせればよいという考えの人もいる。
しかし、海を漂っていればよいわけではない。港で食料を調達する必要がある。食料が片寄っていれば壊血病になる。調達する食料の選び方も含め、航海の仕方を知らなければ、私たちはいとも簡単に、死ぬ。


私はときどき遭難中の船とも出合う。そんなときのために救援物資は多めに積むようにした。しかし幽霊船は助けることができない、下手するとこちらも幽霊船となる。海流・気流の関係で難破船・幽霊船が集まっているところもある。寂しくはないだろうが、もはや沈むのを待つばかりの船たちだ。
座礁の危険をおかしながら近づいたとしても、一定のところで見切りをつけざるを得ない。溜め息をついて気を取り直し、自分の目的地へ急ぐ。新たな帆と操る基本、助けの求め方は残したつもりだ。あとは自分でやるしかない。航海は孤独なものだ。だからこそ助けは貴重なのだが。私も何度か助けられた。


そんなに大変なら海に出なければよかった、という人は、つまり生まれなければよかったというようなものだ。船酔いにもいずれ慣れる。
おだやかな日に光を浴びて、すべるように進む船の甲板に立つ心地よさ。たとえ、天気に恵まれたそんな日ばかりではないとしても。


航海術を、あるいは目的地を決めそこに向かう意志を愛と呼んでもいいし、むしろ愛でなければならないと思う。たとえば恋とは吹きつける風の一種にすぎず、しかも時としてひどい向かい風であったり暴風雨だったりする。


皆さんの旅の幸運を祈ります。