アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記 影との戦い』

 アーシュラ・K・ル=グウィンゲド戦記 影との戦い』(ISBN:4001106841)を読みました。

下手にまとめようとすると難しいな。もう少し熟成させてから書こうと思います。
とりあえず訳者あとがきから引用します。


 アメリカの作家で、優れた批評家としても知られるエリノア・キャメロンは、この『影との戦い』を論ずるにあたって、心理学者ユングの説をひき、ゲドを苦しめた“影”はふだんは意識されずにある私たちの負の部分であり、私たちの内にあって、私たちをそそのかして悪を行なわせるもの、本能的で、残酷で、反道徳的なもの、言いかえれば、私たちの内にある獣性とでも呼ぶべきものではないかといいました。もちろんこれはひとつの解釈にすぎませんが、たしかに人は誰も、自我に目覚め、己の内なる深淵をのぞきこんだその日から、負の部分である影との戦いを始めます。それは否定しようにも否定しえない自分の影の存在を認め、それから目をそむけるのではなく、しかと目を見開いてその影と向かい合おうとする戦いであり、さらにその影を己の中にとりこんで、光の部分だけでなくこの影の部分にも良き発露の道を与えてやろうとする戦いです。困難な戦いですが、おそらくはそれを戦いぬいて初めて私たちの内なる均衡は保たれ、全き人間になることができるのでしょう。

 こうして引用してみてわかったのだけれど、「影をとりこむ」「内なる均衡を保つ」「全き人間になる」といった部分について私は疑問を感じます。訳者の考えだけでなく、この小説そのものの姿勢に対する疑問としてもよいでしょう。けして真っ向から反対なのではありません。デリケートな問題であるだけに、表現の微細な違いによって方向性に大きな違いが生じる、その分岐点になる所だと思うのです。

 私は、単純に善悪両者が相互に補完し合うという発想は持ちません。
私たち一人一人が戦っている<影との戦い>においては、目をそむけるのではなく、向かい合うということでしか生き延びることはできない。たしかにそうです。
 ではそうしなければどうなるか。小説の中でも描かれています。
影に無惨に喰われて抜け殻になるか、影が全く制御不能な別の自分として悪を働きはじめる(『ジキル博士とハイド氏』のように)か、あるいはその両方でしょう。
 これはバランスの問題とはいいづらいし、単に「全き人間」になれないというだけのことでもありません。私たちは、理想を追うからではなく、ただ必要に迫られて影と戦うのではないでしょうか。

 小説から少し離れて考えてみるに、とりこむべき“影”があったとして、それは必ずしも純粋な悪だとは言えないのではないか。<目をそむけてしまうときわめて危険なもの>とでも呼んだ方がいいのかもしれません。


 ともあれ、なんらかの結論を出したり評価を行なう前に、付箋を付けたりして何度か読み返そうと思います。
ほとんどそういうことはしないのですが、この本はその価値があると感じました。
あくまで考える契機としての価値ではありますが。

 ただ、ユングなどはできれば避けて通りたいところです。別の意味で危険なので。

 余談ですが、影の伝説というファミコンのゲームはBGMも含めまあまあ好きでした。