愛という、非人間的なまでの意志

 愛がなくては子どもは育たない、か - finalventの日記の以下の部分を読んで、なんとなく思い出したこと。


 キリスト教の愛の奇妙な議論というか、神学というか、どこかに非人格性というのが隠れているような気がするが、そのあたりが、愛、ということなんじゃないか。まあ、そういう議論ではよくわからないが。
 別段、エロスが、アガペーが、とかそういうことではなくてね。
 世間も人も呪ったし、なんか、きっちとした正義とか、理想とかそういうもんじゃないが。
 普通に、世界と人に対して、公平に存在しうるんじゃないかという可能性が、なんとか自分の生きるよすがになっている、と、すれば、愛というのもあったんじゃないかと思うし、ありうるんじゃないかと思う。
 別の言い方をすると、愛を求めている人は、その幻影が消えたら、愛が見えてくるかも。そしてそれによって生き直すことが可能になるかも。
 いや、まあ、私のいうそんな非人格的な愛なんか、まっぴらごめんという人は多いのだろうけど。

 たしか『現代のたとえ話』というありがたいキリスト教訓話の実話集みたいな本に、伴侶に対して愛を感じることができないんです、という人に対して「そうですか。では(奥さんを)愛しなさい」「いえ、愛を感じることができないんです」「では(奥さんを)愛しなさい。愛とは動詞である」みたいな話があった。奥さんではなくて旦那さんを、だったかもしれない。

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 そういう、意志によって人を愛しなさいというのは、ある意味ちょっと人間関係というのをわかってないのかもなとも思わされるし、日本的にいえば「不自然」ということでもある。でも私としてはその逸話に感銘を受けたし、なんとなくそうありたいなと思っているのも変わらなかった。
 公平さの感覚やフェアということへの意志、としてとらえ直すなら、「○○さんは人間であって、それだけで充分に愛すべき理由になる」「しかもこの○○さんは私の妻/夫であり、○○さんは私からきちんと愛されてしかるべきだ」ということでいいんだろうな。お互いの駆け引きとか、こういうことをされたからこう仕返すというようなことではなく、もっと大きな枠組みの部分で。


 夫婦間とかそういうのを抜きにしても、愛というのはある意味で非人間的なところはあるんだろう。人間の自然な感情から言えば、笑ったり怒ったりという感情の浮き沈みはある。人を憎むことだってあるだろう。そうした浮き沈みを超越したところに愛は存在する。恐ろしいといえば恐ろしいものだ。

 著作権が消滅していると認識している口語訳聖書から、コリントの信徒への手紙13章1節から13節を引用してみる。

13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 愛とは非人間的な有りようだし、完全な実践はほぼ不可能といっていい。しかし不自然であっても、愛への意志、愛による意志でもって言葉や行動をととのえ続けて生きることはたぶんできそうだし、それは素晴らしいことだと思う。もちろん、それが現在の関係を維持するということを必ずしも意味するわけではないけれど。

 『現代のたとえ話』には、いつも怒って不愉快そうにしている入院患者が遠い昔に楽しく笑ったときの話を聞いて、ほとんど寝たきりの同室の患者が、死にものぐるいの努力をして逆立ちをしてみせ、その患者を笑わせたというエピソードもあった。なんだそれという視線も内面化しつつも、人をそうまでさせる強大な力というものに強い印象を受ける。

 マザー・テレサについても


晩年、神の沈黙と不在に絶望し、孤独に苛まれていた事が、死後公開された書籍内容によって明らかになった
 と言われている。「あのような立派な活動をしていたのに」ではなく、「あのような立派な活動をしていたからこそ」絶望と孤独に陥らざるを得なかったのかもしれないが、それは決して彼女の活動や愛の意志、愛への意志の偉大さに瑕を付けるような逸話ではないと私は思う。


 私が思い出した自分の恩師の先生たちのことはまた別の機会に書きたい。