「ネガティブなことは書くな」という抑圧と、それへの反発


 少し前に『アルファブロガー』という書籍を買った。まだ全部は読んでいないが、その中に「ネガティブなことは書かないようにしている」というような主張がちらほらあった。

アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから (NT2X)

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 その姿勢は基本的には間違っていないのだけれど、ある意味でおかしい。また、その主張が持つ社会的な影響については相当憂慮もしている。

 私が書きたかったことはありがたいことに既にcatfrogさんが「アルファブロガー」を読んだ その2っていうか本音で書かれているので、今回勇気を得て書いてみる気になった。

 といっても連想した話をつらつらと並べてみる程度になる。

1 「酷評」に対する厳しさ


 『アルファブロガー』の、ネガティブなことは書かないようにしている、という主張に触れて、私は以前話題になっていた「酷評」の話を思い出した。今検索してみたらサヨナナ: その冒涜がいったいナンボのものなのかDon't lose your temper - 酷評するヤツに守ってもらいたいルールが発端のようだ。ここで詳しく経緯などを書く余裕はないけど、「アーティストを潰すな」とか「匿名は無責任」、「好きなものにも触れて立ち位置を明確にしろ」というような様々な要素があるので議論は錯綜している。

 ちなみに私自身も直接または陰で「酷評」と言われ憎まれたことは何度かあるが、ここで継続的に書いてきて好きなものにはその都度触れているし、レビューの対象を全面的に否定したことはなかったと記憶しているので上の議論はあてはまらない(口をとがらせて)。ま、今のはこの機会を利用した言い訳でした。

 批判の対象を可能な限り限定して「私はこういう理由で違う考え方をする」とか「この点についてはこう思う」というような感想を書くなら、問題ない、というか問題にすべきではないと思う。もう少しあるのだけど、きりがないのでこの項はここまで。

2 ネガティブな面を抑圧すること


 以前『女の子どうしって、ややこしい!』という本のレビューを読んだ。

女の子どうしって、ややこしい!

女の子どうしって、ややこしい!

 このレビューがすさまじい。いや、なんというか。書いてあることはまったくその通りだと思う。

本書で紹介される女の子たちのいじめときたら、陰険かつ巧妙、その威力は絶大だ。弱いところをぐさりと突き、心をずたずたにする。大人になってもその後遺症から立ち直れない被害者もいる。男の子の暴力と違って外からはわからないため、親や教師はまったく気づかない。でも実は深刻な問題なのだ。

多くの少女や成人女性への取材を通じてこの問題を調査した著者は、女の子特有の非暴力的ないじめを「裏攻撃」と呼ぶ。そして、その原因は女性の攻撃性を否定する文化にあると言う。女の子は無意識のうちに「いい子」であることを求められ、人気者になる競争を強いられる。だから人間関係を壊すことを極度に恐れ、怒りや衝突、不快感を直接表現できなくなる。そこで間接的な「裏攻撃」が登場するというわけだ。

 ちなみに私は上のような事柄が女性にだけ当てはまるとは思っていないのであしからず。
 なんか大抵のことが「モヒカン族」で扱っている話題に絡んでくるので自分でも参るが、要するに、ウラとオモテのあるムラ社会では、表面を取り繕うことや「相手の気持ちに配慮すること」が強く要求されるために、発生したネガティブな感情があたかも存在しないかのように振る舞うことを要求される。その結果、内にこもった負の感情は発散の機会を失ってどんどん腐敗し悪臭を放つようになり…って言いすぎに読めるかなあ。

3 極東ブログ: ポジティブ・シンキングとやら


 この記事にほとんど言い尽くされているので私が改めて書く必要もないけれど、さまざまな配慮から持って回った言い方などに隠されているので私なりに少し抜き出してみる。

なんかすげーテンション高くてなんでもポジティブ・シンキングという感じな人間って百人に一人くらいいるのではないか。ホリエモンなんかもそのクチだろうか。あまり彼から個別にネガティブな言葉は聞かない。が、全体はすごいネガティブというかニヒリズムみたいなものを感じるが、というか、この手の人って、かなわないなとだけ思う私のような小人は、ドン引く。

 そう、ある種の極度にポジティブな姿勢は強い虚無感の裏返しとしてのポーズである場合がある。

 一つは、否定的な表出というのは自我をプロテクトする行為に組み込まれているようだなということ。二つ目は、否定的な表出というのは対人関係のなかでは支配の行為パターンのようにもなっているのだなということ。もう一つはこの手のエソテリック(秘儀)的な修行は、本とかメディアで読んでホイホイ真似するもんじゃないということ。ある種の東洋的な修行というのは、わけもわからずに実践するもんじゃないというのが多い。

 この辺りは……さらっと書かれているけど、かなり難しい。
 私は『幸福否定の構造』という本を読んでこの辺りのメカニズムについて相当目が開かれた思いがしたのだが、一つは、表層的な意味でのマゾとかでなしに、(強く言えばタナトス的な)ある種の衝動というのはあらかじめ人間に組み込まれていると見てよいように思う(もちろんその衝動にそのまま身を任せてよいかというのは全く別の話)。
 また、「二つ目」として書かれていることだけど、これも表面的なサドとかいう話ではなくなんというか書きづらいのだけどストックホルム症候群的な。恋愛と呼ばれるもののうち一定の割合はこれ。私自身はこうした手法に対して強い反感を持つのだけど、程度問題ともいえる。こうした手法を意識的にまったく使わないとすれば、それはものすごく生きづらいだろう。話が混乱しそうだけど犬でさえ、家族の中で最下位ではなく、最下位より一つ上に自分を位置づけると言われているわけだし。
 「もう一つ」として書かれていることは、当たり前なんだけど改めて書かれなければいけない。表面的にはわからないけれどオカルトとか黒魔術の類に飲み込まれてしまった人もいる。

4 私の考え


 ネガティブな感情を抱くこと自体は、事実として誰にでもある。「抱かないようにしよう」というのは心がけとしてはあり得る*1けど、「自分や自分の好きなものに対して、おまえはネガティブな感情を抱くな」と押しつけるのは無理な話だし、そんなことはすべきではない。


 次に、感じた感情をそのまま表出させるかどうか。これはまた別の問題。

 私は、自分がその感情を抱いた原因をいったん見定めようとしている。たまたま直前に経験した関係ないことのせいだったり、似てるけど違うことと一緒くたにして怒っているとわかったら、その感情には流されまいと一応思う。(思うけど、何か感情を抱くことそのものがいけないとは思わないし、負の感情が存在すること自体を否認しようとは思わない。)

 表出の仕方にも色々あるだろう。公の場で激情に駆られて相手を一方的に罵倒する方法もあれば、自分の信頼できる人に愚痴として吐露する場合もあるだろう。怒りや悲しみの原因について、相手に「それはこういう理由で不当だと思うが、あなたはどう思うか?」と丁寧にたずねるやり方もある。私はできれば相手に直接問いかけて良い形で解消したいと思う方だが、かなりの打撃も被るので愚痴る場合もある。

 上に書いたのは私の方法で、そうしなければならないとは思わない。公の場でネガティブな感情を発散させること自体を否定すべきではない。ネガティブな感情を発散させることによって別の弊害が生じうるなら、その弊害について考慮すればいいだけだ。(考慮しその結果として「その言説は公の場に提出すべきでない」という結論に至るケースもあるだろうけれど、ネガティブな感情を出すことそのものを抑圧すべきではない。)

 ネガティブな感情の発露やネガティブな言説自体を抑圧してはいけないのは、書き手のためにだけではない。抑圧すると、世間のマジョリティに対するカウンターが働かない。「いろんな意見があっていいじゃないか」とよく言われるが、ある意見が既に存在ししかもそれが多数を占めているとき、それと違う意見はそれに対するネガティブなもの・批判としてしか表現することができない。批判自体を許さないとすれば、それは壮大な規模での思考停止と事なかれ主義を助長する発想に陥ってしまう。
 すると、互いの対話によって意見や考えを止揚するということは望めなくなる。ネットはただの「つぶやき」や「なれ合い」の場としてしか機能しなくなる。つぶやきやなれ合いはそれはそれで大切だが、そうでない在り方を抹殺してはいけない。異論はあった方がいい。


 もっとも、ブログを長く書き続けるためには「ネガティブなこと」は書かない方がいいのだろう。摩擦で消耗しないために。人気を得るためにも書かない方がいいのだろう。反感を買わないために。
 「長く書き続ける」「人気を得る」ということが目的でブログを書くなら、ネガティブに読めることは一切書かないのが賢いのだろう。
 私は長く書き続けることが目的ではないし、有名にはむしろなりたくない方なので、自分の感覚に誠実に書いていきたいと思う。その際、自分の感覚が絶対だと思わないことは必要条件だと思っている(常にその旨明示するとひどく煩わしいのでいちいち書かないこともあるけど)。

*1:話をはしょるけど、「このように思わないようにしよう」と心がけるのは無理。「こういう面に目を向けるように」という心がけならできる