他者への傲慢さ/傲慢さへの糾弾による自己正当化
finalventの日記『若者の人間力を高めない非国民運動が大嫌いだ宣言2.0』2005年10月30日
この記事を書き始めるにあたって、以下のようにタイトルを書き始めてみた。
他者に対して「人間力を高める」とか平気で雰囲気で言う傲慢さと、それに対する過度の反発によって逆立ちした自己正当化を行う誘惑
長すぎてタイトルにならないのでやめたが、まったく。根が深い。
あまり長々と書く時間も今ないし、長く書いても読まない人には余計伝わらないと思うのでごく短く書きたい。(が、ムリっぽい。)
構図は目に映る21世紀:「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」に少し詳しい。写真もある。カウンターとして「若者の人間力を高めない非国民運動」という運動もあるわけですね。
なんというか。他者の「人間力」などというものを平気で云々することの愚かさは感じる。
相手がそれぞれに歴史と感情を持った一人の人間であることを思うとき、また自分もその一人でしかありえないことを知るとき、〈「若者」というおおざっぱな括りでもって「人間力」をうんぬんする己は何者か?〉という重い問いを自らに突きつけないとすれば、それは幼稚な在り方だと思う。*1
ただ、ここからがじつに厄介だ。
他者の人間力などというものを平気で云々する「偉そうな」人たちに対する恨みや憎しみ・反発・敵愾心によって自分を肯定し、何かを満たそうとするいわばバックラッシュが、じつは一番困った感情。偽善つまり(ここでは)善への意思を叩くことによって、あるいは自分の無価値や悪を誇ることによって自分を飾る、ねじれた偽善という感じ。いい子ぶってる人を叩くことで、叩いてる自分は違うという安心と優越感・満足を得るわけだ。姥皮(いま面倒なので検索しない)についての昔の一連の話題もそう。
そして、人の内面の根本的な部分に平気で言及する"威張った"姿勢と、それに対する過激な反発・侮蔑は、根っこは同じだと考えている。このあたりは「モヒカン族」という「はてなグループ」で書いていることとも問題意識がかなり重なってくるが、どう重なるかという説明がかなり面倒なので省く。飛躍して聞こえるかもしれない。
「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」大意そのようなことを言ったのはウィトゲンシュタインらしいが、他人の根本思想だとか有り様を自分が正しく評価できる、できているという思いこみこそが問題だ。
私などは誰かのコアな部分を憎んだりしないために、一定の心理的なトリックだとか罠だとか、ある種必然的な(といったら言いすぎか)強い力を持って働くメカニズムを、そこ(コアな部分、その人自身)から分離させて理解しようとしている。私の比較文化論的な思考や代替医療もどき*2のホリスティックな発想も同じ理由からくるのだが、上のいずれかだと受け取って激怒する人も中にはいる。相手と同じように相手に怒ったり軽蔑したりはしたくないが、ただひどく残念ではある。
基本的には「あれこれ弊害が出てくるから、相手の人となりだとか深いところだとかをあれこれけなさずに、実際的なところに話を限定しましょうや」ということを伝えたいのだが、話を限定しようとしない思考形式や、その思考形式を避けるための方法について考えて書くと、自分もどつぼにはまったような文章になってしまう。
だが、少なくとも私自身は「他人の人間力を判定したり高めたりする」などということは臆面もなく言いたくないし、考えたくもない。逆に、人間力とか言うなと言ってここぞとばかりにルサンチマンをむき出しにする人の人間性そのものなどについても言及したくはない。もっと地道にロジックを積み上げていきたいし、自分の直感だとか生理的な好悪についてすら一定の留保を付していたい。
そうした方法論の話としてモヒカン宣言だとかに大いに賛同しているのだけど、どうもなかなか。つまりモヒカン宣言などは、人間味などを「あえて」捨象しているわけなんですよ。「語り得ぬ」ものだから。
そういえば、話が飛ぶが、小林秀雄がデカルトの方法序説について書いていた。考えるヒント3だったか、4だったか。あれは「私のやりかた」とでも訳すべきものだったという話だった。
話が飛んで飛んで回って回ってそのまま終わー る〜。
追記:
書きながらいつの間にか構成上収まりのいい箇所がなくて書き忘れていたのだけれど、元々「人間力」というキーワードや目に映る21世紀: 「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」へのリンクは、alternative jiiangmin - アンチ××力で見かけていたのでした。遅くなりましたが記しておきます。