大虐殺という言葉が実際に意味する悲惨さ − スーダンの状況

日本ではほとんど報道されておらず関心が低いために、力説するとうさんくさく聞こえるかもしれませんが、やはりこれは伝えないでいることはできません。
スーダン今も起きていること。順不同で。

ふだんリンク先は特に見ない方も、今回はぜひそれぞれ見てください。ざっとでも。

危険を犯して食料や薪を取りに行くのは女性だそうだ。男の場合、民兵に見つかったら100%殺されるが、女ならば強姦されるだけで殺されない可能性もあるからだというから、悲惨もここに極まれり、だ。


数万人、あるいは数十万人という数の人間が暴力をふるわれ、強姦され、殺され、飢えで死んでいく。今まさに起きていることです。

ヨーロッパの先進国でのことならどう思うか。あるいは日本でのことならどう思うか。自分の友人ならどう思うか。家族ならどうか。自分が同じ目に遭うことを想像できるか。

目の前で知り合いが倒れていたら、すぐに助けようとするのは当然。偽善だ何だと考えるまでもない。では目の前でなければ、知り合いでなければ、どれだけの大勢が現在進行形でどれだけのひどい目に遭っていても、気にしないでいられるのだろうか。そうは思えません。

スーダンの人も、楽しいときには笑い、悲しければ泣き(あるいは涙をこらえ)、ときどきは冗談もいう人たちでしょう。

数ヶ月前に知ってからずっと心を痛めています。


私にできることは、まず知ること、祈ること、こうして人に知らせること。それから資金的な援助。探したらユニセフ スーダン ダルフール地域緊急支援アピール(2004年6月〜12月)に募金の受付が…よかった。わずかでも役に立てて、少しだけ気持ちが晴れた。


ここをご覧の方に、自分の生活を楽しむなとはいいませんし、思いません。そんな風に受け取られたくないので、基本的には黙っています。(そのせいでこうしてご紹介するのが遅すぎたぐらいです。)

しかし、自分の生活を楽しむどころではない大勢の人が、この同じ時を別の場所ですごしている。
そのことを忘れてしまうことは決してできない。私はただそう思います。